2010年8月23日 (月)

ようこそアムステルダム国立美術館へ

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「ようこそ、アムステルダム国立美術館へ」見てきました。公式サイトはこちら

予告編ではかなりタノシイ人たちの心温まるヒューマンドラマ、といった印象を受けますが、実際にはかなり重たい映画でした。以下ネタバレ。

冒頭、外壁がガンガンと壊され内部に光が差し込んできます。つい先日、解体中の歌舞伎座の前にトラックが横付けになりあれやこれや運び出しているのを見たばかりだったので、思いがけなくひどく感傷的な気分になりましたが、そんな甘い気持ちに浸っていられたのは最初のこの五分だけ、でした
問題山積、ですw 日本と建造物の入札施工の方法が違うのかもしれませんが、コンペを通った建築デザインが原型をとどめなくなるまで改定されたり、申請が通らなかったり許可が出なかったり、工事入札が一社独占になったり、次々に難問が噴出します。一瞬、日本式のいわゆる「根回し」が足りていないだけなのではないか、と思える場面も多々ありますが、それぞれの立場の人(美術館下を生活道路として使っている人々・都市景観を大事にする人・展示の大胆な改革を目指す人etc)の言い分がよくわかるだけに、見ているうちに自分が当事者になったような気で真剣に「どうしたらいいんだろう」と考え込んでしまいます。

中でもとても印象的だったのは、あちこちで議論噴出する様を見て運営委員の人がつぶやいた一言。「民主主義っていうのはもっと崇高なもののはずだ。こんなのは民主主義ではない」それぞれが自分の立場で意見を述べることが保証されている様はほんとうに素晴らしいと思いますが、同時に、より良い案をお互いの間から立ち上げていく責任感、がなかなか持てないのは、この美術館関係者に限らず、どこにでもある「落とし穴」でしょう。風穴をあけるつもりで突飛な思いつきを提示したり、その自分の案を自分の自己実現であるかのように重大視する人は、実は「お手上げ」状態なんだ、ということがこの映画を見ているとよくわかります。それでも会議とあれば呼ばれるし一言言いたくもなる。「参加することに意義がある」の次には「参加しないことに意義がある」も考えられるべきではないかなと。世界が広がり人々のつながりはあっという間に想像を超えたところまで及ぶ昨今、自分の発した言葉がどのような影響を持つか、なんて想像し切るだけでも大変ですが、それでも思考停止し「何でも良いから言ってみる」と投げ出している場合ではありません。分かる範囲でできるだけ最善の道を探り、時には引かなくてはなくてはならない。誰でもが参加できるがゆえに負わされている構成員として責任の重さ、その内実というものが、この美術館のウラ話を通してずっしりと迫ってきます。事実を切り取っていきながら映画的な語り口を崩さなかった監督の力量が光ります。

続編構想中、ということからもわかるように、このオランダを代表するすばらしい美術館は現在ただいまも閉館中です。続編には、この美術館の改築落成式が撮られていることを、切に、心から、願っておりますw

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2010年8月13日 (金)

「ペルシャ猫を誰も知らない」

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「ペルシャ猫を誰も知らない」見て参りました。公式サイトはこちら

昨年カンヌで特別賞を受賞し、ユーロスペースで公開直後から大変人気の作品。今バンド組んでる若い人達と、それからいわゆる「団塊の世代」にはたまらない映画、でしょう。客層もまさにそんなカンジでした。

公式に行くと詳しく書いてありますが、出てくるミュージシャンは全員現地の現役プロ。中でもうまいなと思ったのは写真の2人です。左、若いのに人生を達観し青臭さの全くない、しかし溢れんばかりの豊かな詩情を子供相手に惜しみなくさらけ出すイランの坂崎さんw 右、泉谷しげるとサンボマスターを足して2で割って更にじっくり寝かせて大人にしたような、味わい深いパンチの聞いたブルースを歌うお兄さん。ラッパーやヘビメタ、もちろん主役の2人も含めた他の奏者がまだまだ借り物だったり真似事の域を出ていない中で、この2人は自分の内から生まれ出でた歌を自分で歌っていて、訴えかけてくるものがありました
でもそれよりも監督が、PVのようにして演奏の合間に挟んでくるショットがほんとうに素晴らしい。この音楽の生まれたイランの現状、彼らの心象風景を、強烈なインパクトと深い叙情をもって見事にあらわし、一つ一つの絵がこちらの心に深く刻まれていきます・・・流れている音楽が霞むほどに。

それにしても、かの広大な荒地と砂埃と太陽を前にしては、ロックなんてショボイと思わざるを得ません。あれに太刀打ち出来るのはつくづく彼らの民族音楽だけ、です。自縄自縛の閉塞感、病み荒んだ精神などとは無縁の、問答無用で生命そのものを根こそぎ圧し去ろうとする大地。それに対し真っ向から、生命の有らん限りを、全力でぶつけるすべは、他の音楽にはありません。西洋の音楽をやりたい気持は痛いほどわかりますが、それをやりつくしたら、ぜひとも彼らのあの音楽を大事にして欲しいと、老婆心ながら思ったことでした。

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「華麗なるアリバイ」

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「華麗なるアリバイ」見て参りました。公式サイトはこちら

これはもう、近来まれに見る快作。見終わったあと、「アリバイ」の完璧さに唸ってしまいます。どのくらい完璧かというと、同じ劇場で見ていた人の8割が終映後ロビーで「誰が犯人だったの?」とささやき合っているくらいw
観客に分からなければ意味ないと思いますがwそこはもう、原作も世に出て久しくポアロシリーズでも有名な「ホロー荘の殺人」が下敷きですから、犯人は知れ渡ってます。そしてこの映画がすごいのは、その原作通りの犯人でありながら、原作とは違い「完璧なアリバイ」を擁してしまう所、なのです。ですので、ネタバレどころか犯人知っている人のほうが、映画として数倍楽しめると思います。ポアロさんがいないので「誰が捕まえるのかなあ」と思っていたら、まさかこんな結末が待っていようとは!!

原作と違い女優さんの山小屋や庭の東屋や洞穴がなく、その結果死に場所も死に方もちょっとずつ違ってたりします。あと登場人物が携帯使っていたり、フィリップ氏の病がさらに進行していたりと、原作とは違う設定も多々あります。しかしそれでも犯人は一緒、そして結末が違うのです。本当に見事な換骨奪胎ぶり、ミステリーファンにこそ是非見て欲しい傑作でした。

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2010年8月 1日 (日)

インセプション

334832view006 インセプション見てきました。公式サイトはこちら

冒険活劇系は苦手で殆ど見ないのですが、子供が勧めてくれたので観に行く気になりました。事前に読んだ感想で一番当たっているなと思ったのは「他人がやっているゲームを延々見せられている感じ」でした。そんな映画です(こらこら) 以下ネタバレ全開

英語字幕版で見に行ったのですが、セリフで「特殊な夢」「特別な夢」と何度も言っている、それが字幕に現れて来ませんでした。これが抜け落ちたままで見るとちょっと分かりづらいかもしれません。他人の夢に入り込んで無意識領域を操作するわけですが、それは私たちが普段見ている「何でもあり」「不合理不条理アリ一切制約なし」の夢ではなく、夢をみる機械によって操作された特別な夢です。言ってみればある一定の「枠」のある夢で、夢のなかで次に起こることは、通常の夢とは違いあらかじめほぼコントロールできるのです。ですから、夢だからご都合主義で何でもあり、と思って見ていると「なぜできないのか」「なぜこんなに縛られるのか」と疑問符だらけになります。その意味では正しくゲームと同じです。夢設定のアドベンチャーゲームなのねと思えばいいわけです。
そして途中で登場人物が言及していますが、設定自体はセラピストが使うごくごくありふれた手でもあります。こーんなにダイナミックではありませんがw人間の表層から深層心理へと一つ一つ階層を降りていく感じも、「キック」で元に戻ってくる感じも同じ。「インセプション」してしまうことも実際にはよくあります。そういう意味では冒険する先が人の内面のゲーム、ということになりましょうか。

この二つを組み合わせたところが新しかったのだ、と思いますが。最近はやりの心理療法を受けている人にとっては身につまされるばかりで楽しむ余裕は生まれないかもしれません。また、偉そうに言ってますが私はアドベンチャーゲームって殆どやったことがないのでw びっくりするほど大変な目に遭うとか、その危機に陥っている階層がそれぞれ映像的にリンクしているところとか、本当に面白かったですが、ゲームやりこんでいる人が見たら目新しいものは何も無いものかもしれません。一番大きいのはたぶん、こうした大掛かりな舞台設定を消化するだけで疲れてしまい、スリルと緊迫感だけなら他でも味わえるな、と観客が途中で観るのを投げ出してしまうところでしょう。ゲームにはないスケールの壮大さ映像の雄大さが、「夢」という設定が裏目に出て緊迫感を失ってしまい、ただひたすら面倒になるようです。初めてトロッコに乗ったおばさんヨロしく私がワクテカしている横で、特に3層目から4層目に行くあたりでは、皆様あくびやため息続出でした。お腹いっぱい、だったのでしょうか。有名どころの意匠をいろいろ引っ張ってきすぎたのも、作品世界への糸口と言うより既視感に繋がったかもしれません。

Back to the Futuer や Star Wars を出すまでもなく、ファンタジーや異世界を扱う時は、一にも二にも設定が本当に大事なのだと改めて思ったことでした。



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2010年6月 9日 (水)

告白

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話題の「告白」見てまいりました。公式サイトはこちら

この映画は中学が舞台ですが、現役の都立高教師の友人も、もう教師を引退した私と同じような友人も、それから公立学校に子供を通わせたことのある友人も皆、絶賛してましたので、ちょっと頑張って平日の朝九時半からw見てきました

学校や教室を舞台にした映画ドラマは数あると思いますが、この映画は「リアルさ」という点で別格です。15禁指定、内臓こそ映りませんがスプラッタばりに血がバシバシ吹っ飛ぶ映画のどこがリアルかといわれそうですが、実は「教室の中で起きていること」って殆どの人が「自分の育った教室のこと」しか知らないのではないでしょうか。今知り合いや自分の子どもに小中高校生がいる人も、彼らが教室という密室で何をしているかは実は「伝聞」でしか知らないはずです。で、殺人事件には幸運にして出遭わなかった人も多いと思いますが、それ以外のこの映画に出てくるシーンは全部、今のお子さんが実際に暮らしている世界ではごく「当たり前」の事だと思って見て欲しいと思います。現役教師たちが「王様の耳はロバの耳」と叫びたくて仕方のない「教室の現実」ってまさにこのとおりなんです。

映画の中では、ある事故について、先生の告白、生徒の告白、生徒の親の告白という形をとって、次々と「真実」が明かされていきます。最初に淡々と語られる事実は、ワイドショーその他で語られる「中学生の実態」を超えていません。彼らの日常も見ている人の「想像の範囲」を超えていないと思います。でもその見えている事柄の内側が「告白」によって次々とさらけ出されていくと、まずちょっと題材が過激な普通の中学生日記、のように思えて、多少気持ちは引き気味になりながらも、何とか画面を見続けるでしょう。頑張ってみていればこの凄惨な話の片隅に微笑ましいと思えるシーン、救われたような気持ちになれるシーンもあるかもしれません。
でもそれも「告白」によって、さらに内側が暴かれていきます。この、三層目まで描いたから、すごいと私は思うんですね。で、実はそこまで暴くと彼らの心の闇は、古今東西何も変わっていないのだということが、現実と呼ぶにはあまりにも重たいモノと共に、ストンと理解できると思います。でもだからこそ、現代社会では、彼らのそうした人として当たり前の、ごく根源的な欲求は、決して、絶対、金輪際全くかなうことのない望みだということも、彼らと違ってもう社会に出ている人たちには容易に理解できると思います

主演の松たか子さんは、自分の子どもには、何とかしてこうした世界は回避させたい、と正直に話しておられました。私も同じことを考え子供は公立には入れていません。そして持てる知識のすべてを総動員し、子供本人の持つ能力と運に助けられて、現在はまだこうした事態はそこそこ回避できています。小学生の時いじめで保健室登校した事もありましたが、子供は自分の力ではねのけましたし、またはねのけられるレベルのいじめでした。そしてそんな程度で無事小中をくぐり抜け高校に行ける子供など、日本全国でほんの一握りなのだという事をしみじみ思います。何故か。

もともとの「子供の幸せ」という定義が間違っているから、です。世間一般的な意味で子供を幸せにしてあげようと思ったら、「ただの」親「ただの」教員では絶対に無理なんです。それを享受するために人並外れた運や実力が必要になってくるような、人間が人間を教える限界、というものを遥かに超えたものを、現代は次世代に要求しているからです。最初から無理。映画を見て「こうならないためにはどうするか」ではなく「こうなるのだ」という現実を引き受ける勇気を持って欲しいと、私は自戒を込めて思います。松さんは、先程の言葉に続いて「でもいざその場になったら戦って欲しい」と言っていました。その通りです。「幸せな子ども像」という出来上がった観念に子供をすり合わせるのではなく、現代社会の要求などはねのけて、その子がこの社会と向き合っていけるためには何が必要か、を親が個別に考えてあげて欲しいのです。それは「使えない教師」にも「頼りない塾」にもできない、会社や社会の評価とは全く別次元の「人間としての中身」が試される、親子の真剣勝負でもあります。

そこで血を流さなければ、どこかで本当の血が流れることになる、そして世の中はそんな犠牲には一切お構いなくただ滔々と流れていく。エンドロールのOmbra mai fùは心に痛い、救いでした

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2010年5月 3日 (月)

川の底からこんにちは

第19回PFFスカラシップ作品『川の底からこんにちは』見てきました。公式サイトはこちら 

えーと、スカラシップ作品だと知っていて見に行ったのですが、途中何度も、俳優として出演している岩松了さんが撮った作品かと勘違いして見てました。そのくらい、良く言えば手練れの、悪く言えばおっさんくさい映画です。

もし岩松さんが撮っていたなら絶対こうはならなかっただろうと思うのが、終盤に向けての、一気呵成の正統派「〆」です。ここは寸分の隙も見せず、気負いもなく衒いもなく本当にお見事としかいいようがありませんでした。どれもどこかで見たことがある、ある意味手垢にまみれた王道の「死」の表現を積み重ねているのに、これこそがこの監督が描きたかったシーンなのかと思えるほど映画の存在感を増し、前半中盤すべて忘れて最後には「いい映画だった」と思わせてしまう力強さがありました。

逆に、別人ながら岩松作品と似たものを感じてしまうのが、「田舎」というものに対する強烈な、ほとんど業のような含羞と、抗いがたい癒着を内に抱え込んでいるところ。さらにその全てをごまかさんがため、照れ隠しに放ってはスベる笑いまで、岩松さんと同じでした。岩松さんはもうおぢさんですから、少年時代に対する憧憬を「オヤジギャグ」で防御し大切に抱える気持ちはわからなくはないです。でも現在進行形の若い監督までそうなのかと思うと、映像に語らせずセリフで説明してしまう唐突さと相まって、なんだか見ていて辛くなります。栴檀は双葉より芳し、の逆で、オヤジは生まれた時からオヤジ、ということなんでしょうか

その含羞に覆われた癒着の何がいけないかというと、自分のフィールドを客観的に見つめ直せない、あるいは見つめ直すことを拒否する結果、表現として未完成、未熟なままスクリーンに放り出されてしまう点です。対象を描くにも監督の心象を投影するにも全てが未分化なまま終わってしまっている点が非常によくないのです。それがその人の人となり、血や肉の一部となってもはや分かちがたいものであることは百も承知ですが、遠藤周作が切支丹文学を書くにあたり「生まれた時からいつのまにか着せられていた自分の衣を、いったん脱いで調べ直してみた(大意)」と同じような作業は、少なくともそれを題材に描くなら、最低限逃げずにちゃんとやって欲しい。監督こそ頑張れ。中の下人間に頑張らなきゃというなら、監督こそもっと自分自身ときちんと対峙してから表現して欲しいと、そう思わずにはいられません。
日本の「田舎」と呼ばれる社会の持つ精神構造の、多層化と膠着という二律背反は、監督がここに投げ出してきたものほどステロタイプでもなく、説明もいらないほどだれにでもわかる普遍的なもの、でもないはずです。対象のどの部分が監督の目にどう映ったのか、それを映画の中の主人公のように、開き直ってさらけだして描いてもらえれば、それだけで表現として成立します。監督、頑張れ、です。

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第9地区

「第9地区」見てきました。公式サイトはこちら

ビジュアル的になかなかとっつきにくいですがw「パイレーツオブカリビアン」のデイヴィ・ジョーンズおよびそのお友達たちが画面いっぱいに展開しても大丈夫、な方は是非どうぞ。
とても深いトコロをついてくる映画です
もう公開からだいぶ日が経ったので以下ネタバレ気味に。

映画最後まで見終わって、どこが一番心にズシッと残っているかといえば、やはり最初の冒頭部分でした…エイリアンが「難民」となり「難民キャンプ」が「スラム」と化していく過程。今世界中で紛争の種になっている、民族問題、南北問題の根幹に横たわる「やりきれなさ」がメタファを通して丁寧に描かれています。人類皆兄弟という言葉の薄っぺらさが自分の問題として迫ってくるのです。
姿形から「エビ」と呼ばれる彼らの中にはごく真面目な理系の人もいて、その子供はさらに天才プログラマで、とっても可愛くて、お父さんの失態を補って余りある大活躍をします。ところどころに心和ませる台詞があり、このへんは上手に感情移入させてくれます。でも冒頭のシーンが頭をかすめるのです。現実の世界が今直面している問題、すなわち、パーソナルな交流を集団としての交流に敷衍出来ない、その無力感が、彼らの姿に対する抵抗感によってさらに増幅され、何度も思い出させられます…まるで実体験しているかのように。
最後の方で、ヨハネスブルグ中の人が一斉に空を見上げるシーンが有るのですが、その時見ている自分も何だか晴れ晴れとした爽快な気分になっていることに気づいて嫌になります。でも、そういうこと、なんだろうと思います。本音を剥き出しにするのは品のない行為ですが、自分の本音がどこにあるのかは直視しておいた方がいいのです、たぶん。

もう一人の主人公、人間サイドの人物が、途中の戦闘シーンで乗り込むエイリアンの簡単モビルスーツが、エヴァに似てると思ったのはないしょですw







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2008年11月 9日 (日)

ブーリン家の姉妹

ブーリン家の姉妹、見てきました。公式サイトはこちら

英国国教会誕生のいきさつと大航海時代の幕開けを見てきました・・・じゃなくて(笑) いや歴史的に見るとそういうことなんですが。
この姉妹の話は昔Readerのtextで悪戦苦闘した思い出があります。ですから歴史叙事詩というよりは、結果はわかっていてもやはりそちらの愛憎劇の再現のほうがとても感慨深かったです。余談ですがこのあたりの時代の英語ってスペルはめちゃくちゃだし(”boleyn”でブーリンとかムリっ)修辞法は絢爛豪華で、特に知性溢れる王妃の言動は一回読んだだけじゃ何が言いたいんだか全然わからないし(涙)。せりふどうするんだろうとシンパイしていたらふつーにあっさりと現代英語で安心しました(泣笑)

上昇志向に溢れた父親に溺愛される姉とその妹、という構図が最後までぶれることなく描かれている所はスゴイと思いました。女優陣2人が自分の役所を本当にきちんと理解し演じきっていました。FLIXという映画雑誌で知ったのですが、ナタリー・ポートマンがヨハンソンを推薦したんだそうで。クイーンアミダラの慧眼恐るべしでありますw 妹の役は、見ようによっては演技以上のモノを要求される難しい役所でしたが、ただ朴訥で純粋というだけでなく、王の信頼を得るに足るだけの強さと大きさを持った女性として、スカーレット嬢は奮戦していました。だから古来各地で繰り返されているこの普遍の争いが全く陳腐に見えなかったし、姉の「野望」と「恋」の板挟みも、一個の人間のなかに矛盾なくすっぽりと包含され、確立されていました。ほんとに凄かったです、この2人は。
そして、高校生の私が読んでお馬鹿にしか見えなかったヘンリー8世は、映画で見てもやっぱりバカでしたん・・・(泣笑)なんかこう、役者さんは頑張ってはいるんでしょうけど、どうしても、王という地位以上に魅力を感じられない未熟で浅はかな男なんですよね。女優陣が必死に恋に落ちているからギリギリ成立していますが、この役にもう少し、王の魅力が感じられるようなエピソードがあればよかったのにと思います・・・ねつ造するかどうかはともかく(笑)
いや、だって、仕掛けた姉がうろたえるくらい手練手管に免疫がないとか、ローマカトリックとの決別や前王妃追放を後妻のせいにするとか、ほんとに、女帝時代の幕開けは来るべくして来た、と思わせるに十分な(笑)ダメ男ですよ。そのへん、もし実際史実には全く無かったとしても(汗)王の葛藤とか苦悩とかもう少し丁寧に描いて、映画をふくらませてほしかったなと思いました。

結末が有名で、しかも残酷で暗いオハナシなので敬遠されがちのようですが、女優陣の、美しさもさることながら演技力に心奪われる、昨今稀有な映画です。それと、あの絢爛豪華な宮廷絵巻だけは家のテレビで見ても迫力半減でしょう。お時間があれば是非どうぞ。

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おくりびと

おくりびと、見てきました。公式サイトはこちら

思ったよりもわかりやすくエンターテイメントに溢れた映画でした。もうすこし単館映画系の作風を期待していたのですが、伊丹十三監督の「お葬式」が近いかな。あちらが死を鏡として大胆に生の奔流を描ききった快作、だとすれば、こちらは棺桶の窓から世の中を覗いてみた、ぐらいの大きさで、むしろそのおさまりの良さを楽しむ佳品です。
私はお葬式何回か立ち会いましたが、納棺士のお仕事にあたる部分はたぶん葬儀屋さんがしていて、今回初めて独立した仕事として見ました。それだけでもとても面白かったです。映画として話が重いので、葬儀部分を初め随所にちりばめられた笑いが気分を救いますが、全篇に流れる静謐な空気はそのままに、上手にバランスをとっています。

惜しいなと思ったのはもっくんの芝居でした。妖艶耽美の世界では他の追随を許さない怪優、欲望に形を与えることの出来るあの端正な顔立ちが大好きなんですが、今回は残念ながら浮いてました。失礼ながらあまり期待していなかった広末凉子さんのほうがむしろ、監督の望む空気をしっかりと作りだしてしていました。この夏のオダギリジョーの「たみおのしあわせ」の時も思ったんですが、役者さんってしばらく仕事しないとカンが鈍るんでしょうかね。余貴美子さんと山崎努さんの前でもっくんは、まるでコレが映画初主演の若手俳優、のようにぎこちなく青かった。山崎さんとだけ、あるいは余さんと2人で芝居しているうちはまだよかったんですが、3人でクリスマスを祝っているところなど、1人だけチキンを「食らう」こともできず「生」を伝えることも出来ずにシーン全体がぼやけてしまっていました。日々死と隣り合い死に目を向ける人の、生そのものに対する「抗い」がまるで感じられなかった。広末さんとのシーンではカナリ頑張っていたんですけれどね。そのせいか、逆に広末さんがこだわった納棺士の「穢れ」もどこか唐突になってしまった。チェロも、素人にそれっぽく見せるためには弓を持つ右手の使い方が要なんですけど、誰か指導してあげなかったんでしょうかね。

余談ですが、この原作者の方とは、直接の面識はないのですがお話はよく聞いています。その聞いたエピソードのいくつかがこの映画にも出てきています。実生活から原作、脚本、俳優、映像といくつものフィルターを通り、場面も設定も全く違うモノになっているにもかかわらず、ああこんな風に考え感じていたのかと、その芯の所で確実にこちらに伝わってくるモノがあり、それをとても不思議に思いつつも面白く思ったのでした。

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誰がために

神奈川テレビで放映されて久しぶりに見ました。公式サイトはこちら

公開当時、イメージフォーラムに別の何かを見に行って、時間が合わず、こちらを見た記憶があります。矢野顕子さんと浅野忠信さんという、願ってもない組合せを思わぬ形で堪能させてもらった事を、テレビ画面を見ながら思い出しました。

この映画を見ながら当時の私が何と比べていたかというと、前年公開の「誰も知らない」と、ひと月ぐらい前後して公開された「スクラップヘブン」です。少年犯罪、喪失というテーマが続いたので連想したんだと思いますが、今見ると、前半部分についてだけ感想書いて止めています。

前半はまさしく浅野さんと矢野さんの美しい映像コラボでした。結婚することになる彼女も、幼なじみの女の子も、見事に影を消した非現実的な存在。パレスチナで浅野さんが見たものが現実だとすれば、この、町の小さな写真館は浅野さんにとって安逸という「幻想」だったのかもしれません。現実からの逃避の末にたどり着いた桃源郷。この、どこにでもあるごく日常の風景を浅野さんの心象風景であるかのように撮る監督の手腕は本当に素晴らしかった。矢野さんの音楽世界もそこにぴたりと沿うていて心地よくさえありました。
ところがそれが理不尽な少年犯罪によって崩壊する。しかも時は、浅野さんの思いと心に頓着なく、非情なまでにドンドン過ぎていく。幼なじみとまわりの人の「善意」により無理やり押し流されようとさえする。そのどうしようもない「置き去り感」が「絶望」に変わり「少年」にぶつけられていく様が、浅野さんの口から、仕草から、重くこちらの心に響いてきます。

ここで私が感想を書くのを止めてしまった理由が、今ならわかります。それが、浅野さんの「妄想」を打ち砕く現実として浅野さんの前に立ちはだかった犯人役の少年の「存在」でした。映画の中ではこの少年は、人を殺せる手と小鳥を可愛がる可憐な指先と、折れそうに頼りなげな首すじと人を寄せ付けない閉じた瞳を、まるで同時に抱いてしまう、青年期特有の「まだバラバラな状態」を見事に表しています。が、それ以上に、この小池徹平という少年は、前年是枝監督が作りだした柳楽君の「崩壊してもなお在る生身の憂鬱」でもなく、スクラップヘブンでオダギリジョーが見せた「具現化した鬱屈」でもない、もっと底知れず「得体の知れない闇」を抱えていました。ふと見かけた赤いかわいい風船の中に、静かにひたひたと、しかしぎっしりとコールタールがつめこまれていたかのような、強烈な破壊力。悪意とすら呼べない、もっと無邪気なほど直裁的に抱え込まされているこの人の「闇」は、本人ももてあまし気味に、「とりあえず赤い風船でくるんでみました」的な幼い放擲と共に差し出されてくるだけに、余計にどう見てあげたらいいのかわからないのでした。それは見なかったことにすれよかったのか、気づかなかったことにすればよかったのか。弱冠19才の少年を浅野忠信を呑み込むほどの「現実」として存在たらしめた、この少年の持つ「闇」が、本人ももてあますような深い「闇」が、本人のモノとなって開花するのは、きっとまだこれからのことなのでしょう。3年経った今も、まだ兆しも見えませんし、その後、ドラマやテレビで見せる「笑顔」にも闇など微塵もありません。見てしまった者からすれば痛々しいことこの上ない「笑顔」ですが、あれはまだ見なかったことにしといてほしい、とでもいいたげです。きっと役者と違い、アイドルやタレントの世界で生き残っていくのは大変なことなんでしょう。もしこの人が8年後、30才過ぎてもまだこういう仕事をしていたら、その時こそ是非また映画でお目にかかりたいものです・・・

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