2006年8月17日 (木)

ジム・ジャームッシュ/アーリーコレクション

ジャームッシュファンの皆様、朗報ですvv
プラチナDVD、ジャームッシュの初期三部作がBOXになってついに発売されます!!現段階で予約できるのは TOWER RECORD 宜しければここからどうぞ。

ジム・ジャームッシュ/アーリー・コレクションDVDBOX
<初回限定生産>(4枚組)
オンラインセール価格¥9,056(税込)
オンライン価格¥12,075(税込) 今なら¥3,019(税込)OFF!
国内盤 DVD 発売日: 2006/11/22 組枚数: 4 規格品番: KIBF-90401

■詳細 <封入特典>
★36Pオリジナルブックレット
★劇場公開時のパンフレット・チラシの縮小版
★DVD4枚組仕様 <収録内容> 
【DISC-1】:「パーマネント・バケーション」
【DISC-2】:「ストレンジャー・ザン・パラダイス」
【DISC-3&4】:「ダウン・バイ・ロー コレクターズ・エディション(2枚組)」

特に「パーマネント・バケーション」はまだDVDになっていなかったファン待望の一枚。
バラ売りもしてますので、正価で買えるうちに(笑)是非どうぞ。

ああ、待っててよかったぁ~~~~~~(涙)

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2006年8月12日 (土)

旅芸人の記録

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「BOW30  映画祭」の、私的最後の〆は、やはりこの作品でした。写真クリックすると映画祭公式ページに飛べますが、そこにも書かれている通り、意外にもこの作品が日本でのBOW映画人気の嚆矢だったのです。そして作品に優劣をつけることはもとより到底出来ませんが、それでもこれを越える映画はもう作られる事は無いだろうと、それだけは言えると思います。「旅芸人の記録」です。

 日本で言うと大河ドラマかNHK特集のように、ある旅芸人一族のたどった道をギリシャ激動の時代と絡めて静かに語った作品です。限りなくドキュメンタリーに近く思われますが、監督はこの重厚長大な歴史と人のかかわりを前にして尚それに呑みこまれることなく、一段高いところからしっかりとすべてを俯瞰し、慈愛に溢れた眼差しを細部にわたって向け続け、神の様に透徹した目と哲学をもって映像を組み上げて、映画と言うひとつの「作品」に仕立て上げました。人の一生を題材として人類普遍の真理を解き明かすという物語の形式は古来数多くありますが、それは、作家の手を通して、その実人生をその人と共に一生歩む以上のものを昇華した形で得られる事に意義があるのであり、この映画もそれと同じで、記録が記録に終わらず、経験と記憶として人の心に残る事の意味を、最後のひとつまで見事に掬い上げ取り出して魅せてくれます。なんという、映画、なんでしょうか。

 この、テオ・アンゲロプロスという人が持つ、胆力と知性を兼ね備えた鋭敏な感性と、強力な生命力が作り上げた骨太で厳格な哲学は、もう大地を離れて久しい現代人には到底望むべくもありません。私たちがこれから撮っていくのはもっと別の映画であるはずです。ただ、この映画やそれに類するものが運んでくれていた「時を愉しむ」ひとときというものが、これからは贅沢なものとなるのかもしれないと思うと、それが少し寂しい気がします。一日つぶしてマーラーの交響曲聴きとおす、とか、四鏡を飛ばさず読み通すとか、「時」を愉しむよすがとなるものは世に数多あると思いますが、映画こそ、その使命を果たすのにふさわしいのだと教えてくれたのが、この監督だったのでした。







 


 

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2006年8月 6日 (日)

サクリファイス

074

タルコフスキー監督の遺作でもあり、彼の難解な(笑)作品群の中でも私が一番素直に好きだと思える作品。大変に詳細なストーリー紹介と考察がこちらにあります。

 主人公の教授が頭の中で考えている深く重い思索の内容と、描かれる景色の息の止まりそうな美しさという、一見何の関係も見出せない二つの要素が最後に見事に互いに相関しあう、というところがこの映画のすべてだと私は思っています。古代ギリシャの昔から哲学を具象で現そうという(私から見れば)無謀な試みは延々と続けられているわけですが、それに応える、というか、ひとつの決着をつけて見せたという意味では、私は映画という枠を飛び越えた偉業だとすら思っています・・・それでも難解であることには変わりはないんですけれどね(笑)

 今回、DVDも含めてン十回目の鑑賞で(^_^;)、郵便配達夫のニーチェ語録にも、「不思議な話」にも消化不良を起こさなくなった目で(笑)改めて見てみると、当時は身近な問題であった「核戦争の恐怖」がひとつのシンボルにしか過ぎなくなった今の方が、映画全体の寓話的な意味を、より素直に受け止められる気がします。今はあのジェット機の轟音が、核爆弾を搭載した戦闘機の音にも聞こえるし、どこかのビルに突っ込む旅客機の音にも聞こえるし、戦地へむなしく飛んでいく国連軍の輸送機の音にも聞こえるからです。そうすると、以前にはたいへん唐突である意味呑気にすら思えた「犠牲をささげる」という行為が、むしろとても自然な感情の発露として、私自身にとって、納得できるものになってくる。教授は無神論者と言いながら、ちゃんと神と語り合う術を持っていたわけですが、今はそれに矛盾を感じるより安堵感を覚える方が大きいです。どんな形ででも自分の中で神と「決着をつけられる」人は現代社会ではとてつもなく「運のいい人」であるわけだし、少なくともその人は自ら「平和の破壊者」とはならないからです。そしてそんなピンポイントでも、そこに平安があるなら感謝したい、というのは、私に限らず今この世で生きている人の偽らざる気持ちなんではないでしょうか。


 今は、現実が映画よりも更に深刻になったおかげで、やっと現実が映画に追いついた、ような、そんな気がします。そうして年を経るごとにこの映画から組みだされるものがますます増えていく・・・10年経ったら又、見てみたい映画です。

 

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2006年8月 4日 (金)

あこがれ美しく燃え

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当日急用で見られなくなりまして(^_^;)正確にはここのカテゴリに入れてはいけないと思うんですが、この映画は逆に今まで映画館でしか見たことがなかったので、見逃した悔しさのあまりDVDを買いました~ とてもとても好きな映画ですvv


 美しく力強い映画です。話の前半1/3は、いわゆる教師と生徒の性愛を美しく描いていますが、そこから先が、他の映画にない力を持っています。人間の一生のうち、女性の少女時代に、人類を救う力を見出す人は多いと思いますが、私はこの映画を見るたびに、私達を乗り越えてつき進んでいく人たちの力強さと正しさに救われる思いがします。つまり、そういう映画なんです。

 この美しい瞳で物事をまっすぐに見据える少年のまわりは、ダメな大人だらけです。それもそのはず舞台は1943年スウェーデン最南端の港町、これから始まる嵐のような2年間とそれに続く悪夢の日々を知ってか知らずか、大人はなすすべもなく運命の前に首うなだれ、あるいは自棄になり、あるいは刹那の人生を謳歌するだけの日々。少年の真摯な瞳はむなしくも無視され素通りされてしまうのです。14才の少年にまともに大人とわたりあえるだけの力が在るとしたら、それは彼の中でたった一つだけ成熟を遂げている器官を使う事にしかないと、私も思います。彼は(それを意図したものではないにせよ)そうやって女教師の瞳をこちらに向け、愛欲の世界の気高さと淫猥を同時に経験し、さらにこの奇妙な力関係によって女教師の夫からも、人生の気高さと悲哀を切々と示されます。皮肉にも、このある意味人生に背を向けた夫婦によって授けられた「人生」は、少年が自分の力で勝ち取ったものであるがゆえに、実に正しくまっすぐに彼の心を沃していきます・・・そして最後には、周りの大人が彼に掛ける言葉がまるで自己弁護にしか聞こえなくなるほど、彼の心と精神が力強く一歩高みへと踏み出しているのが見て取れるのです。

 私が個人的に好きなシーンは、女教師と少年のやりとり。愛情がそのまま何のためらいもなく性につながっていくところが本当に美しい。日本の義理と人情に縛られた「高校教師」や「いとしのエリー」に比べて、いっそすがすがしく崇高な感じがします。
 あと、彼女の夫が少年に音楽の翼を授けるシーン。女教師は「主人は帰ってくるとキッチンでいつでも決まってベートーベンをかけるからすぐわかる」と言っていたのに、実際帰ってきた彼がターンテーブルに針を落とすと「マタイ受難曲」が流れてくる(笑)ので、彼にはよき理解者がいないのがよくわかるんですが、ついでに今まで音楽についてあまり語り合ったことがないらしく、自分の興味の赴くままに、少年にいきなり難解な大曲ばかり次々に聴かせます(笑)いや、いい曲だし名曲だしある時期のクラシック音楽の完成形、ともいえる大曲ですが、でもやっぱり家でいきなりベートーベンの「大フーガ」が延々と流れ出したら、少年の親御さんでなくても辟易すると思いますね(^_^;)  
 そして私が見る度に涙するシーン。夫はある日、ブラームスの「ドイツ・レクイエム」を少年に聴かせながら、ナチスの非業を思い、そのまさしくドイツ語で語られる演説を思いながら、当時の世界中の人々と同じ涙を流すのです。あれはドイツではない、これがかのドイツ・リートを育んだドイツ語と同じ言葉である筈がない、と。そこに妄想にも似た望みを寄せてしまうからこそ悲劇は尽きないのだとわかっていても、私も今同じ曲を聴いて同じことを思い同じ涙を流すので、ダメな大人である事に変わりはありません。音楽が世界を救う事はあっても、世界を救うのは音楽ではない・・・その場になすすべもなく泣き崩れる夫の背中を優しく抱きながら、少年もうっすらとその事に気づいたかもしれません。


 

 この、何のためらいもなくカメラの前に自分をさらけ出す少年は、実はこの監督の実の息子さんです。そのまっすぐな瞳をカメラのこちらでしっかり受け止める監督がいたからこその、美しさなのだと今は改めて思います。そして残念ながらこれがこの監督の遺作となりましたが、少年は俳優となり「太陽の誘い」「ゴシップ」などの秀作でいずれも難役をつとめあげています。

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2006年8月 2日 (水)

ストレンジャー・ザン・パラダイス

068

これも、観客がぎっしりで嬉しくなってしまった作品。ジャームッシュ監督作品では、むしろ「ダウン・バイ・ロー」とか「パーマネント・バケーション」の方が人気あると思うのですが、私自身はこれが1番好きなので、上映されてうれしかったですv それと、スキンヘッドや鼻ピアスのたのしそーな若いお兄さん達が(笑)たくさん見に来ていて、その人たちにすっごくウケてて、何度も大笑いが巻き起こっていたのも嬉しかった。この↑天然大ボケトリオは確かに突っ込み所満載ですv

 実は少し前、実家の父代理としてガイジンとご飯食べる席に同席させられまして、話題がないので映画の話をフッたんですが(^_^;)公開中の映画は見ていない人もいるので古い映画の話にシフトしていって、この映画も話題の一つになってたのを見ながら思い出しました。ネタバレになりますが、私はカノジョがクリーブランドに向けて発ったあと、野郎2人が賭けポーカーでお金をまきあげる(^_^;)シーンがイマイチよくわからなかったんですよ。そしたら、あれはアメリカ人が東欧の人々に抱くイメージが背景にあって、要するに純朴でまじめな堅物なので、たぶんあの太った眼鏡の男が、彼らをカモにしようと思って連れて来た。それを逆にカモられたので激昂した、というところなんじゃないかという説明でした。ソノ感覚は、明らかにレイシストのそれとは違うものでしたが、でも、というかだから余計に、海の向こうの黄色いおサルにはワカンなかったですけどね(笑) そのガイジンに言わせると(1人はジャームッシュファンでしたv) そういうまなざしは,この映画のあちこちに見受けられるそうで(室内で帽子かぶったままだったり、シアーズでワンピース買ってきたり、タバコの銘柄だったり)、それがとても突き放していながら something warmhearted なところが、ジャームッシュにしては珍しいんだと熱く語ってくれましたよ。そしてそういうビミョーな立ち位置をキープするのは、実はアメリカではとてもむつかしい事であるということも。
 ジャームッシュが、映画を観る側ではなく、むしろ撮る側の熱を掻き立てる理由が、その時何となく、わかった気が、しました。

 あの日、映画館で爆笑していたお兄さん達も、いつか一本、撮ってくれたらと、今は心ひそかに切に願っています。。。。

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2006年8月 1日 (火)

デッドマン

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今回の、BOW30映画祭人気投票で見事第1位に輝いた、ジム・ジャームッシュ監督、ジョニー・デップ出演作品です。2日間で計4回上映されたのですが、チケットも当日すでに残りわずかでした。
えっとですね、私が当日ものすごく驚いたのは、若いおしゃれなお兄さんが、彼女連れて見に来ていた事。女の子の方はとってもかわいくきれいにおしゃれしているし、明らかにデート、なんですけど。差し出がましい事を言うようですが、これははっきり言ってデートで見に行くような映画じゃありません。私は当時これをレンタルして気に入ったので、別の本屋のビデオコーナーで買ったんですが、もちろんアダルトコーナーで、しかもピンクじゃないので隅のほうに「食人鬼」とか「殺戮の森」とかいうオドロオドロしい題のキワモノと一緒に並べられていて、よく知る店員さんが、普段ホラーもオカルトも見ない私に「大丈夫ですか?」と念を押してくれたのを良く覚えています。有名な映画ですからネタバレしてもいいと思うんですが、そして私自身ももう暗記するほど見ましたから、今回初めてスクリーンで見るといっても心構えは出来ていましたが。それでも大迫力の画面で青姦ならぬ青天口淫を見せ付けられ、ギャグでも怨念でもなく、まるでただの障害物のように生きた人の首がグゥンと掻っ切られ、道端の小石ほどにも敬意を払われず無造作に死体の頭が踏みつけられ、こっちを向いた頭がぐちゃりと踏み割られて鼻から血が吹き出す・・・シーンを見た後、例えば連れて来てくれた男の子に「すっごく面白かった!!」とか言ったら、さすがに人格疑われませんかね(^_^;) この映画に出てくるジョニー・デップの演技は本当に素晴しいですが、ファン、という人を誘う時も一応「どのジョニーが好きか」確認したほうがいいかもです(笑)

 では何故私がこの映画だけはDVDでも持っているかというと、人格疑われようとなんだろうととにかく大好きvvである事の他に、実は資料として、なんです。私がボランティアでやっている翻訳の、元原稿を書いているアメリカ人は、(主にメソジスト系の)クリスチャンだという括りがあるだけで育った環境も教養も生活レベルもばらばらです。ところが不思議な事に、キリスト教の文章のはずなのですが、教義よりもさらに深く根付いている(^_^;)彼ら独特の行動規範、人生哲学みたいなものがどの階層にも共通してあって、そのキリスト教からの逸脱を、本部と連絡取りながら加筆訂正しないといけない。日本のクリスチャンは世界のクリスチャンに比べると、教義としてのキリスト教を自分達に都合よく書き換えたりは「しない方」なので、銃を持ち問答無用で隣人を撃ち殺すクリスチャンなんて想定外なんですよ(笑)。
 しかしそれがこの映画を見ると納得できる。都市生活を円滑に送る知恵としての「キリスト教」ともうひとつ、「荒野に一人で放り出された時のための教え」を彼らは常にしっかり抱え込んでいるんですが、この映画が描いているのは後者です。そしてその荒野の方は実はさまざまな形で現代人の心の中にも年々広がってきていて、最近はちょくちょくそれが発動するようになってきている。9.11の後なんて、今まで見た事もないくらい教会の活動が熱心に支持されていたんですが、それは彼らが、自分のうちに渦巻く衝動を必死で抑えようとしていたからにすぎない、と海外のクリスチャン達は見ていました。そうしないと本当に、一切の感情を排除した、単に自分が「生きるための殺戮」という、すさんだ乾いたつむじ風が発生する。そこには美学もロマンもエロスも偏執も一切なく、ただ大自然の災禍の一部分と化した人間が、覚めた目で、殺戮を行うだけ。どんな人間にも殺人の衝動はあるものですが、それがアメリカでは彼らの国民性、あの大陸での彼らの存在意義、というところにまで色濃く影を落としている点で、異様、なんです。自分のうちのつむじ風をまだ御しきれずにいる若い男性諸氏がこの映画に強烈に共感を覚えるのも、だからとてもよくわかるのですが、やがてそれが自分のうちにある一過性のものではない、およそ手に負えない類の闇だとわかって、その深さ重さにうちのめされると思います。

 でもアメリカ人はそれを抱えていく。
  まさにこの映画に描かれている通りの世界を、時々ふと覗き込みながら、首を振り振り前に進んでいく、のが彼らなんだろうと思います。


 

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2006年7月28日 (金)

ゲームの規則

035

「名物にうまいものなし」という俚諺はだいたいアタリだなぁと思う私ですが(笑)映画でも、名作・大作と呼ばれるものの中には必ずしもアタリではないものがあります。たとえば「この時代にココまで撮った凄さ」とか「~~を始めて採用した記念碑的作品」とかもっと単純に「~~で賞を取った」とかいう、いわゆる外側の理由で太鼓判押されているものの中には、正直、今スクリーンに掛けられている映画を押しのけるだけの力は持たないものもあります。でもその一方で、今ロードショーになってもお金払って見に行ける凄い「名作」もあります。
 この映画は、世界の映画批評家が10年に1回投票する「世界映画史上ベストテン」で、発表から50年以上を経て、10年毎に毎回順位を「上げて」来ているという怪物。1番直近の2002年には何と第3位まで登りつめて来ましたから、ただの昔懐かしい白黒映画ではないことがお分かりいただけると思います。
 ひとつ、たぶん観客の側が変わったなと思われるのは、公開当時はたいへんに破天荒ではちゃめちゃでわけがわからなかった(ので大幅カットされ公開は打ち切られフィルムも一度紛失した)とされているこの映画独特の表現が、今見ると、大変に生き生きとしてあざとさや芝居臭さのない、自然で明るくのびのびとした演技として、むしろ大歓迎される点です。今は演劇学校などでは、授業でよくこの映画を見せてもらえるらしいんですが、それまで学んだすべての技法をこの戦前の映画に一瞬にしてすべてひっくり返される、という意味で、かわいそうな役者の卵さんたちは訳わからなくなるらしいです(笑)。しかも一見何もしていない「かのように見える」実は物凄く凝りに凝った作品で、1番鍵となる人物を熱演しているのが、実は出演料に折り合いが付かなくて結局自分で出ることにした監督本人。ほんとうにド素人(大爆笑)。
 この監督は、何とアノ印象派の巨匠ルノワールの次男で、その半端でないこだわりが画面の上に溢れかえっていますが(それでお金が足りなくなって自分で出る事になった・笑)、それだけではなく中に出てくる役者に、「その場面に必要なある感情を取り出して魅せる演技」ではなく「常にその全人格を映像に映し出す演技」を要求し、それを映し出した監督の手腕に、私は心の底から敬意を表します。

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2006年7月27日 (木)

ラルジャン

073

たいへんに地味な作品ですが、私が今まで一番多くの人に勧めてきた映画です。信仰にゆきづまったクリスチャンにも、クラスが荒れて息もつけない同僚にも、恋人の乱行に苦しむ友人にも、自分自身をもてあましている人にも、そしてもちろん映画を撮る側に関わるすべての人に、薦めてきました。「83分だからほんとに短い映画なんだけど」いつもそう言って薦めていたのですが、その「けど」の部分について今日も又深く考えさせられましたです。

 一番最近この映画のことを思い出したのは「横浜メリー」を見た時でした。あの映画をドキュメンタリーとして撮った監督は、頭の中で考えた話を俳優を連れて来て再現していっちょあがり、という類の映画が、映画館を一歩出たらどれだけ無力に費え去るものか、メリーさんを前にして思い知ったのだろうと思います。その人生に、その人となりに、その人との関わりに「意味を求め理由を探る」事がどれだけむなしいか。あの年若い監督が次に一歩踏み出せば、あるいはこのブレッソン監督に続く道を歩むかも知れないと、その時私は思ったんですね。
 意味を求め理由を探る・・・人は、一番大きな理由としてはまず危険を回避するために(笑)自分に関わる人々をなるべく理解しようと日々努めています。ですから他人の内側を見事解き明かしたゾという錯覚の中にむしろ積極的に安らぎを求めたがります。その行動に因果関係を求め統計を取り心理学を探求し占いをする。自分も含めて、人が何を考えているか、などという事をとことん考え詰めるとこちらの頭がおかしくなってしまいますから(笑)それはそのあたりで手を打つのが一番いいんですが、その時、それは結局「わからない」ということの裏返しであると、つい忘れてしまうんですね。安心していいんですが忘れてもいけない。忘れると「あの人の考えていることがわからない」などとという絶望的なループから出られなくなりますvvあの人もこの人ももともと全然わからない筈、なんですけどね。

 映画は、監督が何かに興味を持ちそれに触発されて、現実のどこか一部分をフィルムという形で恣意的に切り取り再生して「撮ろう」と思うわけです。何がしかのお金と時間と労力をかけ、そのフィルムに映っているものに自分なりの思いや考えを何か投影し表現しようと思う。映っているものにはどんな加工も出来るし、どんな都合のいい絵だって撮れる。他の媒体と違って時間的場所的制約ははるかに少ない。しかしだからこそ、特に人間を描く場合にそこに「意味を求め理由を探る」という落とし穴に陥りやすいんですよ。平たく言うと、監督自身が「わかったような顔をして」撮っているだけ、になりやすい。昨今の現実世界のニュースを見るまでもなく、人がした事というのはそこにどんな理由をくっつけても現実はすぐそれを追い越していくし、理由がわかったところでそれが他の人間を理解する参考になるかといったら、全然ならない。そうしたら、ただそういうのを、わかった気になって安心したいだけですゴメンナサイ、という謙虚さは(笑)人は心の片隅ででも決して忘れてはいけないと思うんですけれどね。他者の尊厳を尊重するという意味でも、です。

 その究極の形のひとつがこの映画だと、私は思っています。人には人はわからない。そこに一切の予断も期待も説明も結論も求めない。そのカ強い意志の下、映画ではただ人がいて、裏切られて、嘘をついて、犯罪者となって、理想に燃えて、人を殺して、人を助けて・・・いくだけです。でもそれが観客には「納得」できる。そこには不自然さも不合理もなく流れるような日常の中に、ただその人間はそのように生きている。そこで起きていることの非日常性すらも日常として切り出す俯瞰の目。それは監督自身の(インタビューでの)言葉を借りれば「正確さから来る力強さです。それは同じものへと回帰します。というのも正確さが力強さとなるからです。仕事に失敗する場合、私は正確ではありません。正確さは詩情でもあるのです」

 この映画はブレッソン監督の遺作となりましたが、次に予定されていた映画の題は実は「創世記」でした。映画のひとつの完成形として、監督の遺志を継ぐ若い才能の出現を、私は心待ちにしています。

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2006年7月25日 (火)

勝手にしやがれ

010

今、このタイトルを見て思い浮かぶのは、先日オダギリジョー氏とのコラボCD製作発表のあった、新進気鋭のバンド名、でしょうか。ン十年前なら(笑)セックスピストルズの1stアルバムか、沢田研二の歌か、ということになるんですが。

ゴダール映画の流れで言うと、この後、これの次に撮られた「気狂いピエロ」を頂点として、監督の世界は破綻とも取れるエネルギッシュな爆発の連鎖が続き、scrap&buildという形による創造が数限りなく生み出されていきます。で、この「勝手にしやがれ」はその前段階、ですので、破綻に至るギリギリ一歩手前の所で踏みとどまり、きちんと形を成しているvv  そのため、実はゴダールらしくない、とおっしゃる向きも多いんですが、私自身はこれが一番好きです。

 実は私は当時映画を見るより先に沢田研二の歌を聞いていまして、何となく、この映画を下敷きにして出来た歌かな、と思ってたものですから、歌詞のようなやさしく可愛くウェットな伊達男が出てくるのかと、割と軽い気持ちで見たのを覚えています。ところが実際は、少なくともそれまでの私が見た事もなかったような、恋愛映画でした。
 だいたい、恋で一番甘く愉しいはずの所の描写が一切ない。この2人はバカンス先で知り合って5日間かりそめの恋を楽しむのですが、映画はそこはすっとばして(笑)再会する所から始まります。で、パリに戻った女性のほうは小気味良くきびきびと働くアメリカ人の学生で、そんなひと時の恋にいつまでもかまけている暇はない様子。ところが女と見ればゆすりたかりねだりを繰り返してきた本業自動車泥棒のジゴロのほうは(笑)どうもいつもと勝手が違う。このあっけらかんとした男が本気で彼女を好きになってしまった・・・らしい。つまり2人の向いている方向とその温度は、再会した瞬間から、全く知らない人同士以上に絶望的にかけ離れているわけです。ところが。

 別の男と一夜を過ごして朝帰りの彼女が部屋に着くと、男は我が物顔で彼女のベッドに潜りこんでいる。そこから始まる探りあいと駆け引きと本音とプライドと建前の錯綜。2人とも、言っている事としている事と考えている事がバラバラで、まるで両手に自動拳銃を持ってお互い思いつくままむちゃくちゃに撃ち合っているような惨状。その中には私だったら3回ぐらい「死んでいる」確かなヒットもあるんですが(^_^;)2人はかまわず踊るように噛み付くように、撃つ事そのものが目的であるかのように乱射し続けます。そしてその撃ち合いの向こう側で、思いと言葉と行いをはるかに越えて、強烈に2人が魅かれあっていくのが手に取るようにわかる。行きずりの恋から命を落とす恋へ。その一大転機は、こんなにも緊張感に満ちた、それこそいつ破綻してもおかしくない息の詰まるようなラブシーン、なんです。

その後2人はある事情で追われて逃げる事になります。モーツァルトのクラリネット協奏曲が緊張感をことさらにくっきりと際立たせる中(映画でのモーツァルトの楽曲の使われ方として、私はこれ以上正しく深い解釈を知りません)、二転三転する事態にも2人は少しも軸がブレず、運と偶然に翻弄されつつ流れるようにするりと幕は閉じられます。

恋愛映画には、これよりもっと仕組みも構成も凝った素晴しいものがたくさんあります。しかし映画の破綻すらおそれぬ構成と、それを形に仕上げる脚本と、それを撮りきる胆力を持った監督という組み合わせは、他の映画にはない特別な存在感をもって迫ってきます。そして信じられない事に、観客は確かにこの2人の恋に酔う、んです。うっとりと。甘く。せつない気持ちに胸かき乱されながら。

これはDVDでも普通に手に入りますし、レンタルもあります。しかしそれよりも、名画座あたりで、あるいはサークルや研究会が主催して上映されることの多い映画ですので、出来ましたら全身で監督に翻弄されるために(笑)大きなスクリーンで是非一度ごらん下さい。




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2006年7月24日 (月)

ミツバチのささやき

058

かわいい~~~~っっっ(笑)
もう、本当に可愛くて可愛くてどうしようという愛らしさの、主人公ですvv
今はもう無くなっちゃったんですが、以前、日本のロードショーには掛からない海外の秀作ばかり選んで公開してくれる映画館が六本木にありまして。今の岩波ホールよりはもう少し商業ベースでしたが、それでも映画初心者の私には「手強い作品がかかるオトナの映画館」でして。で、そこで、最初に大好きになって憑かれたように何度も通いつめるという経験をしたのが、この映画でした。だって本当に可愛いんですよ~ホントに!

今考えてもこの映画は私の人生の一つの転機、でした。少女だけが持つ無垢な力強さ、無償の愛という形になって現れるその美しさ、ある意味人間の一番崇高で観念的な部分を体現できる、女性の人生のホンのひと時に対するいとおしさ・・・を、自分の感情として感得できたのがとても大きかったです。その頃はいわゆる女性の社会進出が盛んで、女性というカテゴリを飛ばして「人間」という捉え方に流れる風潮がありましたので、若い私にとって、自分の中の女性というものを性として肯定的に見つめることも出来たのはとても有難かった。それに今で言うところのアブナいおにーさんたちが少女に対して抱く幻想も、程度の差はあれ「誰もが抱く思い」である事も、自分を通して理解できました。後年出てくるいわゆる宮崎アニメが、少女達の持つ「この世を切り開く正しい力」に祈りにも似た期待をかけるのも、我が事のように共感できました。彼女達なら出来る、と。 
・・・まぁこの辺から私のオヤジ属性は始まったのかもしれませんが(笑)「自分を知り他人を知る」ために必要な鍵、想像力とsympathyをまたひとつ与えられた、という意味で、本当に得がたい経験でした。

あと有名な話ですからここにも書いていいと思いますが、この映画は往年の名作、初代の(笑)「フランケンシュタイン」が重要な登場人物となって出てきます。そこで賛否が分かれてた・・・ように記憶しているんですが、元フィルムも挿入されているし、ファンは必見vv です。

 


映画祭で見せてもらったものは残念ながらうちにあるDVDより更に劣化が進んでいたのですが(^_^;)、ニュープリント、期待していますvv

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