2006年8月17日 (木)

ジム・ジャームッシュ/アーリーコレクション

ジャームッシュファンの皆様、朗報ですvv
プラチナDVD、ジャームッシュの初期三部作がBOXになってついに発売されます!!現段階で予約できるのは TOWER RECORD 宜しければここからどうぞ。

ジム・ジャームッシュ/アーリー・コレクションDVDBOX
<初回限定生産>(4枚組)
オンラインセール価格¥9,056(税込)
オンライン価格¥12,075(税込) 今なら¥3,019(税込)OFF!
国内盤 DVD 発売日: 2006/11/22 組枚数: 4 規格品番: KIBF-90401

■詳細 <封入特典>
★36Pオリジナルブックレット
★劇場公開時のパンフレット・チラシの縮小版
★DVD4枚組仕様 <収録内容> 
【DISC-1】:「パーマネント・バケーション」
【DISC-2】:「ストレンジャー・ザン・パラダイス」
【DISC-3&4】:「ダウン・バイ・ロー コレクターズ・エディション(2枚組)」

特に「パーマネント・バケーション」はまだDVDになっていなかったファン待望の一枚。
バラ売りもしてますので、正価で買えるうちに(笑)是非どうぞ。

ああ、待っててよかったぁ~~~~~~(涙)

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2006年8月12日 (土)

旅芸人の記録

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「BOW30  映画祭」の、私的最後の〆は、やはりこの作品でした。写真クリックすると映画祭公式ページに飛べますが、そこにも書かれている通り、意外にもこの作品が日本でのBOW映画人気の嚆矢だったのです。そして作品に優劣をつけることはもとより到底出来ませんが、それでもこれを越える映画はもう作られる事は無いだろうと、それだけは言えると思います。「旅芸人の記録」です。

 日本で言うと大河ドラマかNHK特集のように、ある旅芸人一族のたどった道をギリシャ激動の時代と絡めて静かに語った作品です。限りなくドキュメンタリーに近く思われますが、監督はこの重厚長大な歴史と人のかかわりを前にして尚それに呑みこまれることなく、一段高いところからしっかりとすべてを俯瞰し、慈愛に溢れた眼差しを細部にわたって向け続け、神の様に透徹した目と哲学をもって映像を組み上げて、映画と言うひとつの「作品」に仕立て上げました。人の一生を題材として人類普遍の真理を解き明かすという物語の形式は古来数多くありますが、それは、作家の手を通して、その実人生をその人と共に一生歩む以上のものを昇華した形で得られる事に意義があるのであり、この映画もそれと同じで、記録が記録に終わらず、経験と記憶として人の心に残る事の意味を、最後のひとつまで見事に掬い上げ取り出して魅せてくれます。なんという、映画、なんでしょうか。

 この、テオ・アンゲロプロスという人が持つ、胆力と知性を兼ね備えた鋭敏な感性と、強力な生命力が作り上げた骨太で厳格な哲学は、もう大地を離れて久しい現代人には到底望むべくもありません。私たちがこれから撮っていくのはもっと別の映画であるはずです。ただ、この映画やそれに類するものが運んでくれていた「時を愉しむ」ひとときというものが、これからは贅沢なものとなるのかもしれないと思うと、それが少し寂しい気がします。一日つぶしてマーラーの交響曲聴きとおす、とか、四鏡を飛ばさず読み通すとか、「時」を愉しむよすがとなるものは世に数多あると思いますが、映画こそ、その使命を果たすのにふさわしいのだと教えてくれたのが、この監督だったのでした。







 


 

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2006年8月 6日 (日)

サクリファイス

074

タルコフスキー監督の遺作でもあり、彼の難解な(笑)作品群の中でも私が一番素直に好きだと思える作品。大変に詳細なストーリー紹介と考察がこちらにあります。

 主人公の教授が頭の中で考えている深く重い思索の内容と、描かれる景色の息の止まりそうな美しさという、一見何の関係も見出せない二つの要素が最後に見事に互いに相関しあう、というところがこの映画のすべてだと私は思っています。古代ギリシャの昔から哲学を具象で現そうという(私から見れば)無謀な試みは延々と続けられているわけですが、それに応える、というか、ひとつの決着をつけて見せたという意味では、私は映画という枠を飛び越えた偉業だとすら思っています・・・それでも難解であることには変わりはないんですけれどね(笑)

 今回、DVDも含めてン十回目の鑑賞で(^_^;)、郵便配達夫のニーチェ語録にも、「不思議な話」にも消化不良を起こさなくなった目で(笑)改めて見てみると、当時は身近な問題であった「核戦争の恐怖」がひとつのシンボルにしか過ぎなくなった今の方が、映画全体の寓話的な意味を、より素直に受け止められる気がします。今はあのジェット機の轟音が、核爆弾を搭載した戦闘機の音にも聞こえるし、どこかのビルに突っ込む旅客機の音にも聞こえるし、戦地へむなしく飛んでいく国連軍の輸送機の音にも聞こえるからです。そうすると、以前にはたいへん唐突である意味呑気にすら思えた「犠牲をささげる」という行為が、むしろとても自然な感情の発露として、私自身にとって、納得できるものになってくる。教授は無神論者と言いながら、ちゃんと神と語り合う術を持っていたわけですが、今はそれに矛盾を感じるより安堵感を覚える方が大きいです。どんな形ででも自分の中で神と「決着をつけられる」人は現代社会ではとてつもなく「運のいい人」であるわけだし、少なくともその人は自ら「平和の破壊者」とはならないからです。そしてそんなピンポイントでも、そこに平安があるなら感謝したい、というのは、私に限らず今この世で生きている人の偽らざる気持ちなんではないでしょうか。


 今は、現実が映画よりも更に深刻になったおかげで、やっと現実が映画に追いついた、ような、そんな気がします。そうして年を経るごとにこの映画から組みだされるものがますます増えていく・・・10年経ったら又、見てみたい映画です。

 

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2006年8月 4日 (金)

あこがれ美しく燃え

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当日急用で見られなくなりまして(^_^;)正確にはここのカテゴリに入れてはいけないと思うんですが、この映画は逆に今まで映画館でしか見たことがなかったので、見逃した悔しさのあまりDVDを買いました~ とてもとても好きな映画ですvv


 美しく力強い映画です。話の前半1/3は、いわゆる教師と生徒の性愛を美しく描いていますが、そこから先が、他の映画にない力を持っています。人間の一生のうち、女性の少女時代に、人類を救う力を見出す人は多いと思いますが、私はこの映画を見るたびに、私達を乗り越えてつき進んでいく人たちの力強さと正しさに救われる思いがします。つまり、そういう映画なんです。

 この美しい瞳で物事をまっすぐに見据える少年のまわりは、ダメな大人だらけです。それもそのはず舞台は1943年スウェーデン最南端の港町、これから始まる嵐のような2年間とそれに続く悪夢の日々を知ってか知らずか、大人はなすすべもなく運命の前に首うなだれ、あるいは自棄になり、あるいは刹那の人生を謳歌するだけの日々。少年の真摯な瞳はむなしくも無視され素通りされてしまうのです。14才の少年にまともに大人とわたりあえるだけの力が在るとしたら、それは彼の中でたった一つだけ成熟を遂げている器官を使う事にしかないと、私も思います。彼は(それを意図したものではないにせよ)そうやって女教師の瞳をこちらに向け、愛欲の世界の気高さと淫猥を同時に経験し、さらにこの奇妙な力関係によって女教師の夫からも、人生の気高さと悲哀を切々と示されます。皮肉にも、このある意味人生に背を向けた夫婦によって授けられた「人生」は、少年が自分の力で勝ち取ったものであるがゆえに、実に正しくまっすぐに彼の心を沃していきます・・・そして最後には、周りの大人が彼に掛ける言葉がまるで自己弁護にしか聞こえなくなるほど、彼の心と精神が力強く一歩高みへと踏み出しているのが見て取れるのです。

 私が個人的に好きなシーンは、女教師と少年のやりとり。愛情がそのまま何のためらいもなく性につながっていくところが本当に美しい。日本の義理と人情に縛られた「高校教師」や「いとしのエリー」に比べて、いっそすがすがしく崇高な感じがします。
 あと、彼女の夫が少年に音楽の翼を授けるシーン。女教師は「主人は帰ってくるとキッチンでいつでも決まってベートーベンをかけるからすぐわかる」と言っていたのに、実際帰ってきた彼がターンテーブルに針を落とすと「マタイ受難曲」が流れてくる(笑)ので、彼にはよき理解者がいないのがよくわかるんですが、ついでに今まで音楽についてあまり語り合ったことがないらしく、自分の興味の赴くままに、少年にいきなり難解な大曲ばかり次々に聴かせます(笑)いや、いい曲だし名曲だしある時期のクラシック音楽の完成形、ともいえる大曲ですが、でもやっぱり家でいきなりベートーベンの「大フーガ」が延々と流れ出したら、少年の親御さんでなくても辟易すると思いますね(^_^;)  
 そして私が見る度に涙するシーン。夫はある日、ブラームスの「ドイツ・レクイエム」を少年に聴かせながら、ナチスの非業を思い、そのまさしくドイツ語で語られる演説を思いながら、当時の世界中の人々と同じ涙を流すのです。あれはドイツではない、これがかのドイツ・リートを育んだドイツ語と同じ言葉である筈がない、と。そこに妄想にも似た望みを寄せてしまうからこそ悲劇は尽きないのだとわかっていても、私も今同じ曲を聴いて同じことを思い同じ涙を流すので、ダメな大人である事に変わりはありません。音楽が世界を救う事はあっても、世界を救うのは音楽ではない・・・その場になすすべもなく泣き崩れる夫の背中を優しく抱きながら、少年もうっすらとその事に気づいたかもしれません。


 

 この、何のためらいもなくカメラの前に自分をさらけ出す少年は、実はこの監督の実の息子さんです。そのまっすぐな瞳をカメラのこちらでしっかり受け止める監督がいたからこその、美しさなのだと今は改めて思います。そして残念ながらこれがこの監督の遺作となりましたが、少年は俳優となり「太陽の誘い」「ゴシップ」などの秀作でいずれも難役をつとめあげています。

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2006年8月 2日 (水)

ストレンジャー・ザン・パラダイス

068

これも、観客がぎっしりで嬉しくなってしまった作品。ジャームッシュ監督作品では、むしろ「ダウン・バイ・ロー」とか「パーマネント・バケーション」の方が人気あると思うのですが、私自身はこれが1番好きなので、上映されてうれしかったですv それと、スキンヘッドや鼻ピアスのたのしそーな若いお兄さん達が(笑)たくさん見に来ていて、その人たちにすっごくウケてて、何度も大笑いが巻き起こっていたのも嬉しかった。この↑天然大ボケトリオは確かに突っ込み所満載ですv

 実は少し前、実家の父代理としてガイジンとご飯食べる席に同席させられまして、話題がないので映画の話をフッたんですが(^_^;)公開中の映画は見ていない人もいるので古い映画の話にシフトしていって、この映画も話題の一つになってたのを見ながら思い出しました。ネタバレになりますが、私はカノジョがクリーブランドに向けて発ったあと、野郎2人が賭けポーカーでお金をまきあげる(^_^;)シーンがイマイチよくわからなかったんですよ。そしたら、あれはアメリカ人が東欧の人々に抱くイメージが背景にあって、要するに純朴でまじめな堅物なので、たぶんあの太った眼鏡の男が、彼らをカモにしようと思って連れて来た。それを逆にカモられたので激昂した、というところなんじゃないかという説明でした。ソノ感覚は、明らかにレイシストのそれとは違うものでしたが、でも、というかだから余計に、海の向こうの黄色いおサルにはワカンなかったですけどね(笑) そのガイジンに言わせると(1人はジャームッシュファンでしたv) そういうまなざしは,この映画のあちこちに見受けられるそうで(室内で帽子かぶったままだったり、シアーズでワンピース買ってきたり、タバコの銘柄だったり)、それがとても突き放していながら something warmhearted なところが、ジャームッシュにしては珍しいんだと熱く語ってくれましたよ。そしてそういうビミョーな立ち位置をキープするのは、実はアメリカではとてもむつかしい事であるということも。
 ジャームッシュが、映画を観る側ではなく、むしろ撮る側の熱を掻き立てる理由が、その時何となく、わかった気が、しました。

 あの日、映画館で爆笑していたお兄さん達も、いつか一本、撮ってくれたらと、今は心ひそかに切に願っています。。。。

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2006年8月 1日 (火)

デッドマン

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今回の、BOW30映画祭人気投票で見事第1位に輝いた、ジム・ジャームッシュ監督、ジョニー・デップ出演作品です。2日間で計4回上映されたのですが、チケットも当日すでに残りわずかでした。
えっとですね、私が当日ものすごく驚いたのは、若いおしゃれなお兄さんが、彼女連れて見に来ていた事。女の子の方はとってもかわいくきれいにおしゃれしているし、明らかにデート、なんですけど。差し出がましい事を言うようですが、これははっきり言ってデートで見に行くような映画じゃありません。私は当時これをレンタルして気に入ったので、別の本屋のビデオコーナーで買ったんですが、もちろんアダルトコーナーで、しかもピンクじゃないので隅のほうに「食人鬼」とか「殺戮の森」とかいうオドロオドロしい題のキワモノと一緒に並べられていて、よく知る店員さんが、普段ホラーもオカルトも見ない私に「大丈夫ですか?」と念を押してくれたのを良く覚えています。有名な映画ですからネタバレしてもいいと思うんですが、そして私自身ももう暗記するほど見ましたから、今回初めてスクリーンで見るといっても心構えは出来ていましたが。それでも大迫力の画面で青姦ならぬ青天口淫を見せ付けられ、ギャグでも怨念でもなく、まるでただの障害物のように生きた人の首がグゥンと掻っ切られ、道端の小石ほどにも敬意を払われず無造作に死体の頭が踏みつけられ、こっちを向いた頭がぐちゃりと踏み割られて鼻から血が吹き出す・・・シーンを見た後、例えば連れて来てくれた男の子に「すっごく面白かった!!」とか言ったら、さすがに人格疑われませんかね(^_^;) この映画に出てくるジョニー・デップの演技は本当に素晴しいですが、ファン、という人を誘う時も一応「どのジョニーが好きか」確認したほうがいいかもです(笑)

 では何故私がこの映画だけはDVDでも持っているかというと、人格疑われようとなんだろうととにかく大好きvvである事の他に、実は資料として、なんです。私がボランティアでやっている翻訳の、元原稿を書いているアメリカ人は、(主にメソジスト系の)クリスチャンだという括りがあるだけで育った環境も教養も生活レベルもばらばらです。ところが不思議な事に、キリスト教の文章のはずなのですが、教義よりもさらに深く根付いている(^_^;)彼ら独特の行動規範、人生哲学みたいなものがどの階層にも共通してあって、そのキリスト教からの逸脱を、本部と連絡取りながら加筆訂正しないといけない。日本のクリスチャンは世界のクリスチャンに比べると、教義としてのキリスト教を自分達に都合よく書き換えたりは「しない方」なので、銃を持ち問答無用で隣人を撃ち殺すクリスチャンなんて想定外なんですよ(笑)。
 しかしそれがこの映画を見ると納得できる。都市生活を円滑に送る知恵としての「キリスト教」ともうひとつ、「荒野に一人で放り出された時のための教え」を彼らは常にしっかり抱え込んでいるんですが、この映画が描いているのは後者です。そしてその荒野の方は実はさまざまな形で現代人の心の中にも年々広がってきていて、最近はちょくちょくそれが発動するようになってきている。9.11の後なんて、今まで見た事もないくらい教会の活動が熱心に支持されていたんですが、それは彼らが、自分のうちに渦巻く衝動を必死で抑えようとしていたからにすぎない、と海外のクリスチャン達は見ていました。そうしないと本当に、一切の感情を排除した、単に自分が「生きるための殺戮」という、すさんだ乾いたつむじ風が発生する。そこには美学もロマンもエロスも偏執も一切なく、ただ大自然の災禍の一部分と化した人間が、覚めた目で、殺戮を行うだけ。どんな人間にも殺人の衝動はあるものですが、それがアメリカでは彼らの国民性、あの大陸での彼らの存在意義、というところにまで色濃く影を落としている点で、異様、なんです。自分のうちのつむじ風をまだ御しきれずにいる若い男性諸氏がこの映画に強烈に共感を覚えるのも、だからとてもよくわかるのですが、やがてそれが自分のうちにある一過性のものではない、およそ手に負えない類の闇だとわかって、その深さ重さにうちのめされると思います。

 でもアメリカ人はそれを抱えていく。
  まさにこの映画に描かれている通りの世界を、時々ふと覗き込みながら、首を振り振り前に進んでいく、のが彼らなんだろうと思います。


 

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2006年7月28日 (金)

ゲームの規則

035

「名物にうまいものなし」という俚諺はだいたいアタリだなぁと思う私ですが(笑)映画でも、名作・大作と呼ばれるものの中には必ずしもアタリではないものがあります。たとえば「この時代にココまで撮った凄さ」とか「~~を始めて採用した記念碑的作品」とかもっと単純に「~~で賞を取った」とかいう、いわゆる外側の理由で太鼓判押されているものの中には、正直、今スクリーンに掛けられている映画を押しのけるだけの力は持たないものもあります。でもその一方で、今ロードショーになってもお金払って見に行ける凄い「名作」もあります。
 この映画は、世界の映画批評家が10年に1回投票する「世界映画史上ベストテン」で、発表から50年以上を経て、10年毎に毎回順位を「上げて」来ているという怪物。1番直近の2002年には何と第3位まで登りつめて来ましたから、ただの昔懐かしい白黒映画ではないことがお分かりいただけると思います。
 ひとつ、たぶん観客の側が変わったなと思われるのは、公開当時はたいへんに破天荒ではちゃめちゃでわけがわからなかった(ので大幅カットされ公開は打ち切られフィルムも一度紛失した)とされているこの映画独特の表現が、今見ると、大変に生き生きとしてあざとさや芝居臭さのない、自然で明るくのびのびとした演技として、むしろ大歓迎される点です。今は演劇学校などでは、授業でよくこの映画を見せてもらえるらしいんですが、それまで学んだすべての技法をこの戦前の映画に一瞬にしてすべてひっくり返される、という意味で、かわいそうな役者の卵さんたちは訳わからなくなるらしいです(笑)。しかも一見何もしていない「かのように見える」実は物凄く凝りに凝った作品で、1番鍵となる人物を熱演しているのが、実は出演料に折り合いが付かなくて結局自分で出ることにした監督本人。ほんとうにド素人(大爆笑)。
 この監督は、何とアノ印象派の巨匠ルノワールの次男で、その半端でないこだわりが画面の上に溢れかえっていますが(それでお金が足りなくなって自分で出る事になった・笑)、それだけではなく中に出てくる役者に、「その場面に必要なある感情を取り出して魅せる演技」ではなく「常にその全人格を映像に映し出す演技」を要求し、それを映し出した監督の手腕に、私は心の底から敬意を表します。

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2006年7月27日 (木)

ラルジャン

073

たいへんに地味な作品ですが、私が今まで一番多くの人に勧めてきた映画です。信仰にゆきづまったクリスチャンにも、クラスが荒れて息もつけない同僚にも、恋人の乱行に苦しむ友人にも、自分自身をもてあましている人にも、そしてもちろん映画を撮る側に関わるすべての人に、薦めてきました。「83分だからほんとに短い映画なんだけど」いつもそう言って薦めていたのですが、その「けど」の部分について今日も又深く考えさせられましたです。

 一番最近この映画のことを思い出したのは「横浜メリー」を見た時でした。あの映画をドキュメンタリーとして撮った監督は、頭の中で考えた話を俳優を連れて来て再現していっちょあがり、という類の映画が、映画館を一歩出たらどれだけ無力に費え去るものか、メリーさんを前にして思い知ったのだろうと思います。その人生に、その人となりに、その人との関わりに「意味を求め理由を探る」事がどれだけむなしいか。あの年若い監督が次に一歩踏み出せば、あるいはこのブレッソン監督に続く道を歩むかも知れないと、その時私は思ったんですね。
 意味を求め理由を探る・・・人は、一番大きな理由としてはまず危険を回避するために(笑)自分に関わる人々をなるべく理解しようと日々努めています。ですから他人の内側を見事解き明かしたゾという錯覚の中にむしろ積極的に安らぎを求めたがります。その行動に因果関係を求め統計を取り心理学を探求し占いをする。自分も含めて、人が何を考えているか、などという事をとことん考え詰めるとこちらの頭がおかしくなってしまいますから(笑)それはそのあたりで手を打つのが一番いいんですが、その時、それは結局「わからない」ということの裏返しであると、つい忘れてしまうんですね。安心していいんですが忘れてもいけない。忘れると「あの人の考えていることがわからない」などとという絶望的なループから出られなくなりますvvあの人もこの人ももともと全然わからない筈、なんですけどね。

 映画は、監督が何かに興味を持ちそれに触発されて、現実のどこか一部分をフィルムという形で恣意的に切り取り再生して「撮ろう」と思うわけです。何がしかのお金と時間と労力をかけ、そのフィルムに映っているものに自分なりの思いや考えを何か投影し表現しようと思う。映っているものにはどんな加工も出来るし、どんな都合のいい絵だって撮れる。他の媒体と違って時間的場所的制約ははるかに少ない。しかしだからこそ、特に人間を描く場合にそこに「意味を求め理由を探る」という落とし穴に陥りやすいんですよ。平たく言うと、監督自身が「わかったような顔をして」撮っているだけ、になりやすい。昨今の現実世界のニュースを見るまでもなく、人がした事というのはそこにどんな理由をくっつけても現実はすぐそれを追い越していくし、理由がわかったところでそれが他の人間を理解する参考になるかといったら、全然ならない。そうしたら、ただそういうのを、わかった気になって安心したいだけですゴメンナサイ、という謙虚さは(笑)人は心の片隅ででも決して忘れてはいけないと思うんですけれどね。他者の尊厳を尊重するという意味でも、です。

 その究極の形のひとつがこの映画だと、私は思っています。人には人はわからない。そこに一切の予断も期待も説明も結論も求めない。そのカ強い意志の下、映画ではただ人がいて、裏切られて、嘘をついて、犯罪者となって、理想に燃えて、人を殺して、人を助けて・・・いくだけです。でもそれが観客には「納得」できる。そこには不自然さも不合理もなく流れるような日常の中に、ただその人間はそのように生きている。そこで起きていることの非日常性すらも日常として切り出す俯瞰の目。それは監督自身の(インタビューでの)言葉を借りれば「正確さから来る力強さです。それは同じものへと回帰します。というのも正確さが力強さとなるからです。仕事に失敗する場合、私は正確ではありません。正確さは詩情でもあるのです」

 この映画はブレッソン監督の遺作となりましたが、次に予定されていた映画の題は実は「創世記」でした。映画のひとつの完成形として、監督の遺志を継ぐ若い才能の出現を、私は心待ちにしています。

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2006年7月25日 (火)

勝手にしやがれ

010

今、このタイトルを見て思い浮かぶのは、先日オダギリジョー氏とのコラボCD製作発表のあった、新進気鋭のバンド名、でしょうか。ン十年前なら(笑)セックスピストルズの1stアルバムか、沢田研二の歌か、ということになるんですが。

ゴダール映画の流れで言うと、この後、これの次に撮られた「気狂いピエロ」を頂点として、監督の世界は破綻とも取れるエネルギッシュな爆発の連鎖が続き、scrap&buildという形による創造が数限りなく生み出されていきます。で、この「勝手にしやがれ」はその前段階、ですので、破綻に至るギリギリ一歩手前の所で踏みとどまり、きちんと形を成しているvv  そのため、実はゴダールらしくない、とおっしゃる向きも多いんですが、私自身はこれが一番好きです。

 実は私は当時映画を見るより先に沢田研二の歌を聞いていまして、何となく、この映画を下敷きにして出来た歌かな、と思ってたものですから、歌詞のようなやさしく可愛くウェットな伊達男が出てくるのかと、割と軽い気持ちで見たのを覚えています。ところが実際は、少なくともそれまでの私が見た事もなかったような、恋愛映画でした。
 だいたい、恋で一番甘く愉しいはずの所の描写が一切ない。この2人はバカンス先で知り合って5日間かりそめの恋を楽しむのですが、映画はそこはすっとばして(笑)再会する所から始まります。で、パリに戻った女性のほうは小気味良くきびきびと働くアメリカ人の学生で、そんなひと時の恋にいつまでもかまけている暇はない様子。ところが女と見ればゆすりたかりねだりを繰り返してきた本業自動車泥棒のジゴロのほうは(笑)どうもいつもと勝手が違う。このあっけらかんとした男が本気で彼女を好きになってしまった・・・らしい。つまり2人の向いている方向とその温度は、再会した瞬間から、全く知らない人同士以上に絶望的にかけ離れているわけです。ところが。

 別の男と一夜を過ごして朝帰りの彼女が部屋に着くと、男は我が物顔で彼女のベッドに潜りこんでいる。そこから始まる探りあいと駆け引きと本音とプライドと建前の錯綜。2人とも、言っている事としている事と考えている事がバラバラで、まるで両手に自動拳銃を持ってお互い思いつくままむちゃくちゃに撃ち合っているような惨状。その中には私だったら3回ぐらい「死んでいる」確かなヒットもあるんですが(^_^;)2人はかまわず踊るように噛み付くように、撃つ事そのものが目的であるかのように乱射し続けます。そしてその撃ち合いの向こう側で、思いと言葉と行いをはるかに越えて、強烈に2人が魅かれあっていくのが手に取るようにわかる。行きずりの恋から命を落とす恋へ。その一大転機は、こんなにも緊張感に満ちた、それこそいつ破綻してもおかしくない息の詰まるようなラブシーン、なんです。

その後2人はある事情で追われて逃げる事になります。モーツァルトのクラリネット協奏曲が緊張感をことさらにくっきりと際立たせる中(映画でのモーツァルトの楽曲の使われ方として、私はこれ以上正しく深い解釈を知りません)、二転三転する事態にも2人は少しも軸がブレず、運と偶然に翻弄されつつ流れるようにするりと幕は閉じられます。

恋愛映画には、これよりもっと仕組みも構成も凝った素晴しいものがたくさんあります。しかし映画の破綻すらおそれぬ構成と、それを形に仕上げる脚本と、それを撮りきる胆力を持った監督という組み合わせは、他の映画にはない特別な存在感をもって迫ってきます。そして信じられない事に、観客は確かにこの2人の恋に酔う、んです。うっとりと。甘く。せつない気持ちに胸かき乱されながら。

これはDVDでも普通に手に入りますし、レンタルもあります。しかしそれよりも、名画座あたりで、あるいはサークルや研究会が主催して上映されることの多い映画ですので、出来ましたら全身で監督に翻弄されるために(笑)大きなスクリーンで是非一度ごらん下さい。




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2006年7月24日 (月)

ミツバチのささやき

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かわいい~~~~っっっ(笑)
もう、本当に可愛くて可愛くてどうしようという愛らしさの、主人公ですvv
今はもう無くなっちゃったんですが、以前、日本のロードショーには掛からない海外の秀作ばかり選んで公開してくれる映画館が六本木にありまして。今の岩波ホールよりはもう少し商業ベースでしたが、それでも映画初心者の私には「手強い作品がかかるオトナの映画館」でして。で、そこで、最初に大好きになって憑かれたように何度も通いつめるという経験をしたのが、この映画でした。だって本当に可愛いんですよ~ホントに!

今考えてもこの映画は私の人生の一つの転機、でした。少女だけが持つ無垢な力強さ、無償の愛という形になって現れるその美しさ、ある意味人間の一番崇高で観念的な部分を体現できる、女性の人生のホンのひと時に対するいとおしさ・・・を、自分の感情として感得できたのがとても大きかったです。その頃はいわゆる女性の社会進出が盛んで、女性というカテゴリを飛ばして「人間」という捉え方に流れる風潮がありましたので、若い私にとって、自分の中の女性というものを性として肯定的に見つめることも出来たのはとても有難かった。それに今で言うところのアブナいおにーさんたちが少女に対して抱く幻想も、程度の差はあれ「誰もが抱く思い」である事も、自分を通して理解できました。後年出てくるいわゆる宮崎アニメが、少女達の持つ「この世を切り開く正しい力」に祈りにも似た期待をかけるのも、我が事のように共感できました。彼女達なら出来る、と。 
・・・まぁこの辺から私のオヤジ属性は始まったのかもしれませんが(笑)「自分を知り他人を知る」ために必要な鍵、想像力とsympathyをまたひとつ与えられた、という意味で、本当に得がたい経験でした。

あと有名な話ですからここにも書いていいと思いますが、この映画は往年の名作、初代の(笑)「フランケンシュタイン」が重要な登場人物となって出てきます。そこで賛否が分かれてた・・・ように記憶しているんですが、元フィルムも挿入されているし、ファンは必見vv です。

 


映画祭で見せてもらったものは残念ながらうちにあるDVDより更に劣化が進んでいたのですが(^_^;)、ニュープリント、期待していますvv

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2006年7月22日 (土)

エル・スール

063

この映画祭の中では、2日間がビクトル・エリセに当てられていて、8回あるうちの6回が「ミツバチのささやき」、2回がこの「エル・スール」ですから、皆さんに待たれていたのはミツバチ、の方なんでしょうか。どちらの作品もDVDは既に絶版、オークション価格は15000円前後、レンタルなし、劇場公開なし、という、これを逃すと正直次いつ見られるかという稀品ですから、客席は前回にもましてタイヘンでしたよ。この写真クリックすると公式に書いてありますが、実は今回の映画祭に際して、シャンテ側はニュープリントを用意しようとしていたらしいです。結局公開日には間に合わなかったのですが、作っているなら新しいDVDも出る、でしょうか。期待していますvv

 そして私は寡作なエリセ監督作品の中で、これが一番好きです。本当に、映像が美しい。何度見ても、一つ一つのカットに、文字通り見惚れてしまいます。非常に精緻で繊細に作り込まれた画の数々。しかもそれが流れるような躍動感と息遣いに満ちていて、映画でなければ撮れない美しさとはこういうものかと、ただただため息です。その「まるでフェルメールの絵が動き出したかのような」とよく言われる静かなたたずまいに、ひっそりと寄り添うように、お話は少しずつ少しずつ、深く沈められていきます。少女の成長と共に、まるでパラフィン紙が一つ一つはがされていくように、家族の思いが、父の思いが、父の秘密が、明らかになっていきます。そしてそんなにも微細な動きでありながら、うねりは確かに誰にも止められず、死は偶然でも厭世でもなく、必然となり自然となって、目の前にはらりと落ちてくるのです。叙情という景色の裏に隠されていた生命の重さと厳粛が、ひたひたと自分の身の内に満ちてくるのがわかります。そしてそれさえもが美しい。この映画を見ている時、自分の心に浮かんで来るものをどうあらわしていいか未だにわかりませんが、確かに「それ」が映画と呼応して、映画の世界を創り出しているんです。そしてそれを私の内に映し出しているのも,まぎれもなく監督。2本同時上映。そんな映画を私は他に知りません。

父と娘の心の交流の細やかさがこの映画の核となるところですが、いつのまにか以前より一歩引いた所から眺めている自分がいて、その端正な美しさに見とれながら、その事を少しだけさびしくも感じたのでした。


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2006年7月21日 (金)

はなればなれに

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 これは、家にDVDがあります。っていうか、盤面擦り切れるほど繰り返し見ています(笑)。どうしてかというと、好きとか、感動したとかいうこと以前に、これより後に製作された映画を見ていて、この映画がぱっぱっとフラッシュバックのように思い出される事がとても多いんですよ。で、その度に確かめるから擦り切れる(笑)。この写真をクリックすると、公認vvオマージュ作品の名前がたくさん出てきますが、それ以外にも、喚起される作品はたくさんあります。でしかも、決してパクッたとか似てるとかいうのではなく「あ、この監督もアレ見たんだ~」という妙にドキドキする連帯感が味わえる・・・まぁぶっちゃけ、それだけはちゃめちゃな(笑)映画なので。

 形式としては、時効警察に似ていなくもないです。つまり「強盗をする」という外枠だけがほぼ決まっていて、後は小ネタが数限りなくぎっしり詰め込まれている、という形式。ただ、追求しているものが全然違います。時効警察が求めていたのがfun なら、こちらはintresting の方の「面白さ」の追求。製作側に立つ人なら、これほど製作欲を刺激される作品はないんだと思います。観客は度外視です。ゴダールですから(笑)。しかしなぜかどうでもいいような細部の細部までが強烈なインパクトをもっていて、忘れられなくなります。ですからこれを見た事のある人との間では、暗号が成立します(笑)。オープンカーのフロントガラスにつかまって立ち上がろうとした途端「座んなさい、アルトゥール!」と私を叱ったオジサマもいました。会話に詰まって「今から一分間黙る!」と言いながら自分の耳を塞いでみせた律儀なお兄ちゃんもいました。いずれも「見たの?!」と言ってあとは思い出し笑いの連続vv 見ておくと後で必ず「あ。」と思うことがあると思いますのでお勧め・・・っていうか知らない人はいない位な作品ですけどねvv日本の監督だと、私は鈴木清順監督の作品を見ている時に、思い出す事が多いです。監督のゴダール好きは、かの「ルパン三世」でもよく引き合いに出されていますけど、ゴダールの中では一風変わっているこれも、監督たぶん見てたんじゃないかなぁ・・・と勝手に想像してますです。

それと最後に。
40年前に出来たこの映画の中では、すでにルワンダの虐殺も現代人の病的孤独も、まるで言い古された出来事のように扱われています。その先見の明に驚愕するよりも、この間何の進展もなかった私たちに驚愕、するべきなんでしょうね。たぶん。

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ピアノ・レッスン

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先週の土曜から始まっております「BOW30映画祭」。おかげさまで幸せな映画漬の日々を堪能しております。
一応2004年には全作品DVDになっているのですが、DVDそのものがレンタルになっていない、入手困難、というものもありまして、連日補助椅子出動する盛況ぶりです・・・これ見て、もう一回DVD出してくれないでしょうかね。紀伊国屋書店さん。写真から、映画祭の公式該当ページに飛びますので、役者名などはそちらでご確認下さい。

さて、ピアノレッスン。
私の映画への入り口は、実は音楽でした。今ではそれは筋違いだというのはわかっていますが、もともと音楽を聴く事がとても好きだったので、音の良さに導かれるようにして見るようになった映画が多いんです。もっと前ならミュージカル映画全盛、だったんですが、私が「聴いた」映画は、なぜかこのフランス映画社のものが多かったです。で、この映画は、まさにそのピアノの音が凄かった。役者が本当に自分でピアノを弾いているんですが、ピアニストを生業としている人には到底出せない、逸脱した音の連続、とでも言いますか。かきむしられるような狂気と背中を焼かれるような熱が封じ込められ、しかもそれを知りながら解くすべを持たないもどかしくも稚拙な指・・・から流れ出る音は、そのまま、心の響きあわない夫と共に音楽の象徴する「世界」から隔絶された、主人公そのもの、でした。それは、当時の私にとってはどんな素晴しい演技よりも心に直接突き刺さる「表現」でした。その閉塞感に、二、三日、夢でうなされたのも良く覚えています。たぶん、程度ははるかに低いながら、私も自分のもどかしくも稚拙な「指」をもてあましていたからだろうと思います。この映画の感想でも、あの「演奏」が忘れられない、というのをいくつも読みました。

 それと、これを最初見た時感じた母性に対する「違和感」が、年を経てきれいに消えてなくなっていたのが今回一番印象的でした。当時の私は結婚すらまだでしたから、母親という役割を課せられている人の中に、女が居て、音楽家がいて、つまり「彼女」というものが居て、という輻輳的な存在が、頭ではわかっても、どうしても具体的に想像できなかったんですよ。でも今ならガンガンわかりますねvvむしろ自分の中に鬼が居る事に快哉を叫んでこその母なのだという、すべてに対して体当たりの真っ向勝負を挑み続ける彼女に、とてもとても共感しました。

 音楽の神は、才能と引き換えにすべてを要求する厳しい神です。人間の側は注意しないと、そこに共依存に近い犠牲的精神を強いられることになります。彼女も、平たく言えば人生を見据える支えを失ってピアノに逃げていた。しかもそういう熱と献身を、実は音楽は非常に喜ぶので、ついには自分がピアノ「でしか」なくなってしまう・・・その彼女がいくつもの岐路に立たされその度に決断を下し、ひとつひとつ人生を取り戻していった時、最後に、まさに彼女に依存していたピアノが怒る。そこで共に奈落の底に沈んでしまうのも人生、自らもやいを断ち切って海上に浮かび上がるのも人生、ですが。
 「そんなに音楽が大事か」と問われて「音楽も大事だから」と悠然と応えられる人だけが対等に音楽の神と渡り合えるのだろうと、私は思っています。

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2006年4月 4日 (火)

夢二

Photo加入しているCATVで「鈴木清順特集」と銘打って放送していた、3つ目の作品。いわゆる大正浪漫三部作の最後、でもあります。1991年製作。

実は前2つはちゃんと録画したのですが、これだけは3月ひと月かけて都合4回全部失敗しまして(^_^;)。ただ、これはDVDになってすぐ買った古いディスクがありまして。今回結局それを何十回目かで見ております。今日も実はこれを見ていて、愚息を稽古場に迎えに行くのを忘れました(^_^;)一度見始めたら本当に止められない、ものすごくものすごく好きな映画です。


この映画は、三部作の中では割と評価の分かれる作品です。「夢二」と題が付いていて、映画の中にも実際に竹久夢二関連の史実がたくさん出てきますので、「伝記的夢二」を通して大正浪漫を描くのだと思ってしまうと、夢二らしからぬ夢二に面食らうと思います。でも、例えば私には、夢二の描く絵、というものは、決して心骨削って一心不乱に魂魄注ぎ込んだもの、ではなく、彼の人生の片鱗がたまたま絵となって零れ落ちたもの、のように見えます。たっぷり墨をふくんだ筆から一滴、夢二も知らぬうちに落ちた一滴。だとすると、この映画は、いわばその一滴の元となったであろう、墨と穂先と筆とそれを持つ手をあますところなく描きこんでいる映画だと思います。世に「竹久夢二」という名で呼ばれる人の、一部であり全てである、その「一滴」にかかわったであろう全てを。

沢田研二扮する夢二が、宮崎萬純さん扮する彦乃と駆け落ちしようとしてままならない。夢二が先へ金沢に行くと、山の湖で山狩りをしている。鬼松という殺人鬼が、妻を寝取った脇屋(原田芳雄)と妻を殺して逃亡中なのだと教えてくれたのは脇屋の妻(毬谷友子)。夢二はねんごろになりますが、実は夢二自身も脇屋とは知り合いで、東京で夢二の自画像を巡って決闘沙汰が御預けのまま、なのでした。脇屋は殺されているわけですが、もし生きていたら夢二は二重の意味で殺されますから、怯えて仕方がない。もっと言えば、実は脇屋の妻も、嫁いで来る前夢二と恋に落ちていたのでした(その花嫁衣裳の片袖を夢二が持っている)。そこへ東京から、伊藤晴雨の元を逃げ出したお葉が来る。彼女が見つけた新しい仕事場はカフェというのは真っ赤なうそで、実は生きていた脇屋が別宅をカフェに仕立てて夢二をまんまと呼び寄せたもの。画家の稲村御舟(坂東玉三郎)も表れ、3人で鬼松山狩りを見物ついでに脇屋妻の待つ本宅へ行きます。しかし脇屋妻は、頑として脇屋を夫とは認めない。行き場を失った脇屋はしかし偶然駅で、夢二を追ってきた彦乃を助け、彼女を人質に脇屋家に名乗りを上げ、祝宴を催すついでに、夢二と御舟に妻を描かせることを思いつきます。祝宴の裏で戯れ描く脇屋妻と夢二。そこへ脇屋への復讐に燃える鬼松が乱入します。2人にあてられた鬼松は2人を道連れに屋敷外へ出て、手伝いを頼んで首を括ります。「このまま逃げよう」という夢二に、約束どおり絵の描かれた片袖の花嫁衣裳を着たままの脇屋妻は「着替えてくるから。必ず戻ってくるから」とその場を去ります。「待てどくらせど来ぬ人を・・・」、誰を待っているのかも忘れてしまった夢二は呆けたように薄野原に立ち尽くします。

あらすじはこんな感じですが、話の筋には乗らないところで、目に焼きついてはなれない映像が、それこそ数え切れないほどあります。先にあげた事情で、前2作と比べて評価はわかれる所なのですが、私はその一つ一つのシーンのいちいちの完成度の高さ、役者さんたちのぎりぎりの爛熟度の高さを含めて、この作品が一番「好き」です。

私はいろんな事情から、実はこの映画を見るまでは、人が美しいと言うものを美しいと言い、美しいと感じるであろうものを予測して美しいと言うだけで、自分から何かを美しいと感じる心はいわば封印同然でした。が、この映画を見てから、まるで解き放たれたように自分がきれいだと思い好きだと思ったものだけを美しいと言えるようになりました。それほどこの映画の美しさがことごとく「好き」だったんですね。つきつめれば最後は好き嫌いの問題だという事だと思います。私は自分が何が好きか、という事を、この映画を見てからはとても大事に思えるようになりました。
映画のなかで、たぶん一番好きな作品です。

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2006年3月24日 (金)

ツィゴイネルワイゼン

chigoineru 1980年、鈴木清順監督作品。
この作品は公開の仕方が大変特殊だったんですが、そのあたりの事情が"tender"というサイト様のこの ページに大変詳細に残されています。良ければ是非、ご参照下さい。





 これも京都に行く前に見てました(^_^;)。清順監督作品の中ではこれが1番好き、あるいはこれが1番わかりやすい(笑)と評判の作です。話は、破天荒なドイツ語教師原田芳雄と、友人ドイツ語教師藤田敏八が、大谷直子さん、大楠道代さん(藤田妻役)を巡って思いを残し続けていくもので、最後までちゃんと破綻せずに終わります。鈴木清順監督の代わりに暴れているのは原田さんかなぁ(笑)大正末期の耽美なエロティシズムを、人間の内側からの必然として描き切った佳作です。
 藤田さんと原田さんが旅先で遊んだ女郎と、そっくりの女がご大家から原田さんの所へお嫁に来ます。遊び女に似ていると言われ、野卑な(汗)原田さんにぞんざいな扱いを受け続けたそのお嬢様は、やがて女の子を残してスペイン風邪で亡くなります。と、乳母にと雇われてきたのがいつかのあの女郎(大谷さん一人二役)。その頃、妻の病んだ妹から、大楠さんと原田さんが一緒に見舞いに来て、相思相愛の様子だったと告げられた藤田さんは、普段が普段だけに原田さんが信じられず(汗)、そのうち持ち前の放浪癖が首をもたげた原田さんは、気ままに旅するうち、旅先で野垂れ死にます。残された大谷さんを藤田さんは気にかけ、大谷さんも、生前原田さんが貸した本にかこつけ藤田邸へやってきますが、そこにそれ以上の進展はなく、原田さんと大楠さんの話も妹の妄想だったと後でわかります。

 そりゃあもうこの映画をタダモノではなくしているのは、タダモノではない原田さんです(笑)。清順監督の実写メタファ?!に敢然と立ち向かえる存在感はそれは凄いものがあります。この人は映画がない時どうしているんだろうと(笑)余計な心配してしまうほど「日常」からかけ離れています。そして清順さんが1番嫌ったのは、日本の私小説の伝統余波とも言うべき、映画の中に「日常」を持ち込む事、だったのかもしれません。リアリティとか、現実の重みなんていうこざかしい道具立ては、わざわざ映画の中に興さなくていい。ここは別世界なんだし、これがこの世界の「現実」なんだから、と事あるごとに「つまらない映画」に反発しているように見えます。それ面白いです・・・か?なんていう凡人の戯言には耳も貸さず(笑)、人が入った後の玄関をずらして中を見せ、そのまま玄関ではなく「さっきは壁があった場所」を突き抜けて人を帰したり、人を小ばかにしたように(笑)似た女が偶然何度も現われたり。でもそういうことをやっても全然薄っぺらな感じがしないんです。そこに、リアルに近づけようとか、逆に何かを壊してやろうとかいった、浅薄な意思が微塵もない。荒唐無稽であるからこそ、「これはこれでいいんだ」というその一言だけがまるで天地創造のような重みで掟となり世界を作る。ストーリーとして納得し、目で追って楽しめる分、端々に現われるそのご託宣の一々が鮮やかに映像世界に際立ちます。

大楠道代さんの演技には、もうぞくぞくしっぱなしでした。
この人の名前を見ると、大塚楠緒さんを思い出すのですけれどね(笑)。この映画で見た大谷さんがまさにそんな感じでした。






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2006年3月13日 (月)

陽炎座

 鈴木清順監督作品、1981年発表です。
  私が「嫉妬の香り」でいつもお世話になっている(笑)CATVで先週放映があって、やっと録画して見ました。これは私が学生になってからも、何度かその手の映画館にかかっていたので、それで見た記憶があります。
 泉鏡花が原作で、もちろん読んではいたのですが、当時映画を見ながら物凄い既視感に襲われ続け、アノ映像を見てソンナ風に思う自分に1番びっくりしました(笑)。で、笑い事ではなく、それが実は、私にとってこの映画の世界に遊ぶ為の鍵だったのでした。後の時代にこの面白さが伝わっていくのか、私にははなはだ疑問ですが、ちょっと書いてみようと思います。

 主人公の松田優作がある人妻(大楠道代)と恋に落ちます。ところが彼女は、瀕死の妻を持つ松田氏の恩人(中村嘉津雄)のお妾。本妻はもともと恩師が留学先で知り合った金髪碧眼の外人女性(春婦)で日本での苦労の末に床に伏せっているのです。さらに大楠さんは「三度お会いして、四度目の逢瀬は恋になります。死なねばなりません。」と松田雄作に心中を誘う手紙を金沢からよこします。行く汽車の中で「妾が心中するらしい」と嘯く中村氏に、この夫婦にたぶらかされているのかと松田氏は疑念を抱きます。金沢へ着くと、もう死んだはずの本妻が大楠さんと一緒に夜船に乗って遊ぶ幻。「陽炎座」という小屋で中村氏と大楠さんに出会っても、松田氏はもうすっかり恋心はさめています。ところが本妻の心の内が子供田舎歌舞伎で暴露されるうち、大楠さんがまるで後追い心中のように身を水桶に沈め、歿します。一人残される松田氏・・・あらすじはこんな感じです。

  で、どのあたりが既視感を覚えさせるのかというと、ふんだんに出てくる伊藤晴雨ばりの緊縛絵図や、他の映画で使っていたそのままのセット(笑)ではもちろんなく、「この話ではないけれどこういう映像は見た事がある、よく知っている」という、いわば映画全般のトーンとか、テンポとか、人物像の描きこみ方に対する「既視感」だったのです。
で、それをどこで見たか。それが実は、漱石や鴎外、鏡花を読む人が、読みながら頭の中に思い浮かべるその、映像だったのでした。
私達は、生まれた時から物事は映像で見せられ映像で撮られ、映像作家も自分が見た「映像」を元に絵を作り出しています。でも清順さんが青年だった頃は、まだ観る人の情報源は活字がメインで、小説ももっと普通に娯楽として読まれていて、「文化」の髄にはブンガクが位置していたんですね。だから清順さんが映画を作るにあたって意識したのは、当然のように観客の頭の中に在る「本から出た映像」だったんです。

それはもう、読んでる人にはわかりすぎるほどわかる「漱石」であり「鴎外」。特に漱石は、私に言わせると書きたいテーゼが先行しすぎて小説としては癖がありすぎる人です。人物描写や背景などはまるで現代劇の真っ白な舞台のように書き飛ばしたまま、人物の会話も、道にヌッと立っている電信柱が電線で繋がれているようです。確かに骨太で哲学的で示唆に富んだ繋がりではありますが、だからってその電柱を「道で話し込んでいる2人」と思えといわれても、それは言うほうがムチャです(笑)。でもそれを「イイ」と思う人がいて、今もそう思う人がいるので、監督も映画の中ではたくさんの「電信柱」を出現させているのです。そのすかすかした感じが自分の頭の中の映像速度としっくり来る、という人も昔は多かったわけです。
そして鹿鳴館で踊るステップにあわせて靴の先の刺繍がきらめく、そのかすかな光の様子まで美しく思い浮かべられるような鴎外の「小説」は、確かに小さな説でしかない。もう一人の恩師の妾加賀まり子さんと松田雄作さんをメインとして展開するこちらは、映像文化で育った人にもわかる部分があるかもしれません。でもわざわざ自分を古来の土壌から切り離し「創生した」美のもつ胡散臭さ、不確かさ、まつろわなさがそこにある。それが時にどうしようもなくあざとく、作り物っぽく安っぽく見えるわけです。でも今様のリアリズムはひとまず置いて、監督は観客の頭の中の絵に対して戦いを挑む。私が見た事がある、と思ったのも、「門」や「うたかたの記」を読んでいる時に私の頭に流れていたのと同種の映像が、まさに目の前で映画になって組まれていたから、なんです。

映画全体が「読書のペース」で進む。漫画のカットのように、悲しい部分になると「何ともいえない」という記号をあらわす横顔が出現するのではなく、きちんとそれが言葉で示され、あるいは言葉で裏打ちされた動作が入る。そして「本の挿絵」のような絵が入り、映画観る人はいつものように、その絵によって自分に頭の中の絵を補完する、わけです。

漫画に代表される、言葉はすべて内包されているという「約束」だけで成り立つ映像を見せられ、実際には言葉を取り上げられながら育った人には、この清順さんの映画は映像として意味を持たないと思います。その人たちにとって、言葉を介在しなければならない映像は映像としての存在意義がないからです。「見てすぐわかる」のでなければ意味がない。

でも。それでわかることなんて、
はっきり言って、たいしたことじゃない、です。

そうやって
映像の利点に、映像の力にだけ頼っていると、

そのうち

「だから映画なんてくだらないよ」と、

言われるように、
なるんじゃないんでしょうか・・・・ね。



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2006年3月 1日 (水)

「海を飛ぶ夢」

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今日、←映画の上映会をお手伝いして来ました。
公式サイトはこちら  公開されたのは昨年でDVD出ています。


 お手伝いした場所は、とある修道会付属の施設です。そこで友達がシスターをしているので今回呼んでもらえたのです(そうでなければ俗人の見本のような私には一生縁の無いトコロです・汗)。そして映画の鑑賞ももちろんなのですが、公開当時話題になったように、この映画は「安楽死」という、特に自殺の禁じられているカトリック教徒にとっては果てしなく重い問題を扱っているので、映画の後の茶話会はいつまでも尽きる事がありませんでした。

 いきなり映画の感想からいくと、肢体の動かない、顔だけの演技を強いられる主人公を演じた俳優が、大変な名優でした(スペインでは超有名らしい)。そしてこの俳優によって描かれる「安楽死を望む人」は、今まで描かれた死を望むどんな病人よりも、哲学的で、理性的で、しかも地に足のついた現実的な考え方をする人でした(実在の人物がモデル)。安楽死について今までに交わされているさまざまな感情論・道徳論を初めから飛び越えて、「その先へ」と問題を一歩進めただけでもこの映画は見る価値があったと思います。
 安楽死を認めて欲しいという意見表明をした主人公の周りには、考えうる限りのさまざまな人物が登場します。みな、止めようとするのですが止められません。自分も死の病に冒されている写真の女性だけが「死を望む気持ち」を分かち合うことが出来たのですが、彼女自身も、計画を遂行する前に病に倒れます。会場には司祭様も何人かいらしていましたから、肢体の動かない車椅子の司祭が、まことに伝統的な教義にのっとった「自殺否定説」を展開するくだりでは、私のほうがヒヤヒヤしました。


 で、この司祭も含めて、この主人公の自殺を止めにかかる人物は皆、自分が「止めて欲しい」人ばかりです。彼を止める事によって自らも救われようとする、切なる願いがその後ろに見え隠れします。生きている時、人は様々にお互いに影響しあい、支えあいます。ですからつい、その延長で、人の死に際しても、互いに影響を与えあい、支えあうことが出来る・・・と思いがちです。いつものように彼を支える事によって自らも支えられたい。しかしそれが例え選んだ死であっても、死に向き合った人の前に人の力は及びません。止めようと思うことは自然な行為ですが、突き詰めて考えるとそれは止める人の魂の平安には役に立っても、死に向かう人にとってはただ独善的でうるさいだけの、死とはまったく次元の違う、ある意味自分の事しか考えていないあさましい行為です。特にこの映画では、主人公の死に対する姿勢が首尾一貫してブレないだけに、周りの人の身勝手さ、傲慢さは殊更に浮き彫りになります。世間的に見れば、皆まじめで真摯な「いい人」なんですが。そして彼らはこの先も「生きる」人だから、そうやって生きていけばいいのですが。
 逆に考えればすぐわかることです。では彼が気持ちを翻し、皆の言を入れて死を望むのをやめたら、その後その人たちは彼にいったい何が出来るのでしょう。「よかったね」とヨロコんでそれで終わり、でしょうか。彼自身の魂の平安はそこから先誰が保障してくれるのでしょうか。「支えてあげる」と無責任な事を言いながら、give&takeですらなく、いざ頼られれば、この壮大な問題について彼をこれっぽっちでも支えられる人は、この世に一人もいないのです。死は、他の一切の事柄と違い、どこまでもあくまでも彼自身の問題で、相談相手として有用なのは神ぐらいしかいない領域の話なのですから。

 

 生きていく事の傲慢さを自覚した人、自らも謙虚に死に向き合う人の言葉だけが、彼に寄り添うことが出来ます。裁くことも支えることもせず、お互いはお互いにそばにいるだけ。教会ではそれを「祈る」と呼んでいます。人に出来ることは、古今東西、老若を問わず、祈る事、それだけです。ただそばにいる、それだけ、ですが。









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2006年2月 9日 (木)

春の雪

 学生の時、第一外国語の英語の先生が学習院の高等科でも教えていて、話のついでにふと「三島由紀夫の息子が昔、クラスにいた。綺麗な子で、いったい将来どうなっちゃうんだろう、と思うような浮世離れした美男子だった」と話してくれました。後年、ある展覧会で、教えてくれた人がいて、遠目でその「息子さん」を拝見しました。長い睫を伏せがちに、すっと切り取られたような顎を心持ち引いて「45度うつむき加減に」展示をじっと見つめる怜悧な瞳はvv確かに「見ているこちらが己が卑しさを恥じ入らずにはいられないような」美しさ、でした。先生方の心配をよそに(笑)ちゃんとまじめな勤め人になっておられましたが、会社タイヘンだろうなぁと凡人の私は本気で心配しましたよ・・・(姓は三島ではありません・念のため)
 「春の雪」の中でその父上が書いた主人公、清顕も、まさにそういう「美少年」です。加えて、戦前の公爵家のお坊ちゃまですから、自分の美しさを知っている。自分の存在そのものが、まるで他をあざ笑うかのように圧倒的な、悪魔的な美しさだという事を知っていて、それを当たり前と思い誇りに思っている。少年とはいいながら、そこに素朴さや純粋さはかけらもなく、ただ生き方も含めた、美しい男のあるべき「スタイル」を追求する事にのみ、「若者らしい」情熱を傾ける。それを例えば普通の人がやったら「時空警察」の十文字刑事のように「気の毒が服着て歩いて」しまいますがvv美男子は別です。つまりそれだけの完璧な美男子に生まれついたからこその、清顕の性格であり、矜持であり、女に対する態度であり、幼さ、であるのです。

 何を長々書いているかというと、原作を読んでいる時には正直すっ飛ばして読んでいた(笑)清顕の容姿に重ねられる絢爛豪華な美辞麗句が、映画見終わったあと、突然堰を切ったように思い出されたのです。それがこの作品にとって、どれだけ重要なファクターであったかという事が、視覚で見せられて初めてわかったというか。2才年上の幼馴染が少女から女へと窯変し少しも怖じるところがないのも、友人が友情の度を過ぎた献身を見せるのも、彼を育てるべき養育係が彼の前に出る度、卑屈な惨めな気持ちになるのも、それぞれの内面が要因の半分だとしたら、外的要因はすべて「清顕の美」。それも、決して清廉潔白などではなく、たとえ毒を懐に抱いても尚曇ることのない、突き抜けた美しさです。そのありえないものを「在る」とする虚構から,この話のすべては始まり、最後もそこへ収束していく。。。。

 行定監督は、地に足のついたごくまじめな監督ですから、目の前にいる人間から虚構の存在を引き出すということ自体、難しかったのかもしれません。日本文化や日本の自然の表す美しさ、女性の持つ美しさなら、虚実折り混ぜ実に巧みに映像を重ねて、何倍も美しい「絵」に仕立て上げる事が出来ても、今までに男を美しいとは思ったことのない人には、目の前に男がいてもその美しさを描き出すことが出来ない、という事なんでしょう。妻夫木さんは悪魔のような、というより天使のような美少年ですので、この壮大な話を引っ張る毒もなければアクもない方ですが、例えばそこで、宮様役をやっていたミッチーを引っ張ってきたとしても(私は最初この人が清様だろうと思っていました)、行定監督はたぶん、妻夫木さんとまったく同じカメラワークでまったく同じ絵を撮り、同じ映画にしてしまっただだろうと思います。行定監督的映画の美学は、その「先」にある、わけですから。

別に原作に忠実に映画を起こす必要なんて全然ないですし、今回は細部にわたる映像美にただただ圧倒されwましたが。
感想は・・・映画を見て、原作のよさがわかった、という事でここはひとつm(_ _)m



 

追記:篠山紀信さんが撮ったオダギリジョーは、誤解を恐れずに言えば、この清さま的唯我独尊に満ち溢れた、まさしく「慇懃無礼な美しさ」でした。あの写真を見て真っ先に思い浮かべたのは、「聡子とキスしている自分」の美しさに酔いしれる清顕の姿。でもさすがにこれをスクリーンでやり通すほどのヤラしさは、オダギリ氏にはないんだろうなぁ・・・

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2006年2月 6日 (月)

ラヂオの時間

 先日、地上波で放映していたのを録画して、今日やっと見る事が出来ました。映画館にかかっていた頃、友人どころか親と妹にまで薦めて「あなたの薦めてくれた映画の中で、初めて面白かったvv」と皆さんに大激賞された映画です。元々は三谷幸喜さんが「東京サンシャインボーイズ」という劇団を主宰していた時かけていた芝居で、当時から傑作の呼び声高かった。ただしいかにも「小劇場の観客」が好みそうな内容なので、「笑いの大学」同様、映画化を危ぶむ声はありました。
 改めて見て、やっぱり大笑いして、ジーンと来て、所々泣けました。今一生懸命見ている(笑)時効警察とは違う、シリアスな笑いです。これは、小劇場の役者さんたちが三谷さんと練りに練った脚本を、映画の画面に合う大きな役者さんたちが見事に演じきったからこその、映画としての完成度の高さ、だろうと思います。この後に続いた「みんなのいえ」「新撰組!」「有頂天ホテル」を見る限り、この「ラヂオの時間」は絶対に三谷さん単独で書き得たものではありません。この映画に出てくる脚本家が、俳優やスポンサーや私情や事情によってさまざまに脚本を弄られていったように、三谷さんもサンシャインボーイズの劇団員に、この脚本について、相当あれこれ言われ突っ込まれけなされ叩かれたんだろうと思います。でもそのおかげで、一部の隙もない、完璧なせりふとストーリー展開になっている。各人物の心象風景も実にクリアに立ち上げられ「画面に映っていない人」が今何を考えているかまで、手に取るようにわかる。そして何より、登場人物全員に対し、三谷さんが心の底から敬意を表しているのが痛いほどわかる。三谷さんの無骨な、でも一途な、現場で働く人たちへの熱い熱い思いが、見ている間中、観客の胸をガンガン打ちまくるんです。

 それが、そこまで書き込めたのは、劇団員達のおかげです。DVDの脚本の所には、三谷さんの名前と「劇団東京サンシャインボーイズ」という名前が併記されています。本当に、これは劇団で作り上げた脚本だと思います。そして三谷さんは、そういう形で書くことで一番力を発揮できる作家さんなのではないかと思います。

 「12人の優しい日本人」が劇場公開された頃、三谷さんは自分達の劇団がどうして人気が出ないのか、本当に真剣に悩んでいました。それを隠そうともしない人でした。あれだけ心血注いでいい芝居を作り上げているのですから、大勢の人に見てもらいたいと思う、大ヒットさせたいと思う気持ちは当然、だと思います。そして当時、「どんな手を使ってでも!」って三谷さんがあの温厚なお顔で拳を握り締めても冗談にしか見えませんでしたが(笑)、あの時、本当に真剣に三谷さんは、ロードショー上映で大ヒットを飛ばすような作家を夢見ていたんだなぁと、最近とみに思い知らされています。

 「有頂天ホテル」の大ヒットで、宿願は果たせたと思います。今、三谷さんはどんなお気持ちなんでしょうか。いまさら「むなしい」なんていわないでほしい。その頂点のむなしさを知っているからこそ自分の道を突き進んでいるのが、三谷さんが有頂天に呼んだ、個性あふれる役者さんたちなのですから、今は彼らに背を向けてでも、目指したもののために頑張ってほしい。そしていつか、誰のためでもない三谷さん自身のために、この「ラヂオの時間」を越える脚本を独りで書き上げてほしい。それが「東京サンシャインボーイズ」主宰に最後に残された責任だろうと思います。



 

 

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2006年1月13日 (金)

狼たちの午後

 またまたふるーい映画で申し訳ないw これは、アル・パチーノの映画です。是枝監督の「誰も知らない」を見ていたら、急にこれが見たくなって借りてきました。
 銀行強盗2人組みの映画です。このころはまだ、普通の映画にはCGもないし手法もワンカットワンシーンが多くて、舞台演劇の色が色濃く残っていました。そう思うと「ゴッドファーザー」はほんとにつくづく革新的な映画だったと思うのですがv それとは逆により舞台に近い分、こっちのアルの方が彼の本領発揮してたと私は思っています。
 私にとってアル・パチーノは舞台俳優です。先年「リチャードを探して」という映画を彼が撮りましたからご存知の方も多いと思いますが、映画に出ていない何回かのブランクの間も、彼はずっと舞台には立ち続けていました。で、一番の当たり役と言われているのが「リチャード3世」なんですが、幸運な事にこの舞台を撮ったスライドを家で見せてもらったのが、初めて見たアルでした(いや、スライドって・笑)。一枚一枚、真っ暗の部屋で食い入るように見てました。お馬鹿な中学生だったので「リチャード3世」が何した人かも知らず(おい)、シェークスピアは喜劇しか読んだことなく(殴)、したがってその舞台話法も何もかも全然わからなかったのですが、順番に見ていくと、このリチャードという若者が、何を考え何を感じているかだけは、胸に突き刺さるように強烈に伝わってきました。せりふが無いのに何が言いたいのか強く伝わってくる、というのは、当時の私には物凄い衝撃でした。リチャード3世の元の戯曲を借りて読んでも結局修辞が多くて半分しかわからず(泣)だからどうせ見に行ったってせりふなし状態には変わらないんですが(爆)、それでも見てみたいと、動くこの人を見るためだけにアメリカに行きたいと、その時痛烈に思いました。

 その、強烈な表現力が、見事に出ているシーンが、この映画の中にあります。銀行強盗やって、逃げる前に通報されて警察に囲まれてしまった若者2人。そのうちの1人、アルが警察との交渉に当たります。銀行内部に詳しいので強盗をやってみたものの、強盗には慣れていない、ふつーのお兄ちゃんたち。アルもありえないほど美しいけど普通の人(笑)です。ところが、囲む警察のさらに外側を市井の群集が囲んでいるんですね。公開が1976年ですから、市民運動が盛り上がっていたという時代背景はあるんですが、この人たちは、ムツカシイ事は考えないただの野次馬です(笑)。わりとのんびりした風景。警察も、このまま何も盗らずに人質を解放すれば罪が軽くなるよ~と説得しています。
 ところがアルは、後で書きますがいろんな事情でこのままでは引き下がれない所まで追い詰められていたんですね。で、どうするか。警察の後ろの群集に「アティカだ!!」と叫ぶんです。当時あまりに劣悪な環境に囚人が暴動を起こした監獄の名。これはただの強盗なんかじゃない、みんなこの警察の横暴ぶり(強盗2人にパトカー50台+SWAT・笑)見ただろ!俺達を虫けらとも思っていないんだ!公権力に抗議しよう!という「アティカ!」。銀行出口から出て来た時、絵は大きく引いています。広い画面の中心にぽつんとアルがいるだけ。ところが彼が「アティカ!」と叫んだ途端、はっきりと画面の雰囲気が変わるのです。雰囲気なんていうものじゃなく、もう画像のイロが変わったようにさえ思う。そしてアルが、「アティカ!アティカ!」と叫ぶ度に、周囲の色がまるで強いコントラストをかけたような、はっきりとした力強い画像に次々と変わっていくように「見える」んです。その波が群集に届き、彼らも「アティカ!」と叫びだす、その時はもう彼らすらも別人です。
 こういうのをカリスマ、と呼ぶのは簡単です。そういうものを生まれながらに持った人は実際に政治家などにもよく居るでしょう。アルが凄いのは、それを「演じている」という所。ある意味、カリスマを持っている人達よりもカリスマを熟知し、計算し、「表現」しているのに、同時にアルにしか出せないもの、つまり「アルそのもの」もしっかり内側から見えてるんです。アル・パチーノ自身は扇動者にはなれない。でも扇動者の役なら完璧以上にこなして映画の世界に現実を叩き込む事ができる。そのパワーと深い知性と存在のゆるぎない確かさ。
見る度に本当に凄い人だと思います。

映画の中でアルには、子供から経済的にも精神的にも自立できない母親と、気合の入った奥さんと子供と、それから性転換手術が必要なのに精神病院に入れられている(ゲイの)恋人がいます。それをすべて満たすために強盗したんです。そこで最初に挙げた映画、「誰も知らない」の話ですが。主人公の男の子に、小さい弟と小さい妹がまっすぐな目を向けて全身で見つめているシーン。そばの押入れには上の妹が引きこもりっぱなし。俺だって外で遊びたいのに・・・というところで突然、この強盗アルの目を、思い出しました。うらみも悲しみもせず、ただ淡々と現実を見つめるしかない目・・・を、この男の子もしていました。それはアルと違って演技ではありません。が、それをフィルムに残すべく監督が「仕組んだ」のですから、映画として「表現」しているものは結果的に同じです。そして、こうやって人は、足りないものを補完する術を次々編み出していくんだな、とも思いました。アルを強烈に思い出しながら。







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2006年1月 8日 (日)

ブエノスアイレス(18禁)

「花様年華」について書いたら、この映画をほっておくわけにはいきません・・・の「ブエノスアイレス」。出来たのはこちらが先で、今見たら1997年公開。あ~もう10年近く経つのですね。。。

 この映画は題材をゲイに限定した恋愛ものです。「メゾン・ド・ヒミコ」」が男性観客にも受け容れられている今とは比べ物にならないほど、当時はゲイを扱っているというそれだけのことで、エラい拒否反応でした。主役のトニー・レオンなんて、アルゼンチンに着くまで映画の内容知らされず「騙して」連れて行かれたんだし、あの大作「覇王別姫」でお姫様を演じたレスリー・チャンがここでも受で出てるんですが、彼なんて撮影途中で帰っちゃったくらいw  でも、この監督が例えば男女について語るとすると、前述の「花様年華」になっちゃうんで、だからもっと火のつくような激しい感情むき出しの、切った張ったのやり取りを描こうとしたら、題材をゲイにせざるを得なかった・・・そんな感じ。王監督としては大いに必然性のある設定なんです。
 さらに言うと、2人は別れるためにアルゼンチンくんだりまで出かけているわけなので、既にお互いに相手の事を知り尽くし、言うこと成す事まったく遠慮がない。男女だったら絶対にこうはならないというような、本当に男同士の火のつくような言葉で相手をののしり、モノを投げつけ鏡をぶち割り、ベットを蹴り上げ相手をたたきつける・・・でも同時にそのすべてに於いて、その体が、彼ら自身の肉体が、声にならない声で「お前を愛している」と叫び続けているのが、手に取るようにわかるんです。ダンスをすればそのまま言葉を退け情をからませ睦みあう事もできる二人。でも職場にかけた電話に同僚が出ただけで浮気を疑い猛烈に嫉妬し昼も夜も問い詰め続けるレスリー・チャン。自分と再会するまで夜毎ウリをして糊口を凌いでいた事が許せず、相手がタバコを買いに外へ出ることさえ許さないトニー・レオン。トニーは最後にはレスリーのパスポートを握りしめたまま、居所を隠し、ひとりブエノスアイレスを離れる決意をします。

 「花様年華」のラストシーンを見た時、ああ、この映画は「ブエノスアイレス」と対なのだ、とはっきり思わされたのは、この映画でもトニーが、やはり思いの丈をレコーダーに吹き込もうとするシーンがラスト近くにあるからです。仲を疑われた(笑)職場の同僚が、悲しい思い出がすべて捨てられるという南の果ての灯台に観光で行く、といい、「何か捨てたい話があればこれに吹き込んで。」と勧めてくれます(公開当時、私はこの、声の色を感じ取るという繊細な青年が好きで好きでたまりませんでした)。メイキングによると、ここはせりふが無くトニーの感情の赴くままに任されていたそうで、本人も事前に色々せりふを考えていたらしいんですが。   本番になって、いざレコーダーを口に当てたら、トニーは、感極まって泣いてしまうんです。言葉にならない。涙しか出てこない。今、自分が別れよう、忘れようとしているその相手の事を思うだけで、涙があふれてきてどうしようもない・・・その頃レスリーも、あれほど縛り付けられるのを嫌がったそのベットの上で、トニーの帰りを待ちながら身を捩って泣き続ける・・・最後の最後まで、己が激情になすすべもなく弄ばれる2人。本当に美しいシーンです。

 もうひとつ、私が忘れられないシーンがあります。2人とも全編とおして喧嘩ばかりなのですが、ベッドの上で心を通わせあうひと時もあるんです。普段はけんか腰に言葉を投げつけるレスリーが、字幕では出ませんでしたが(^_^;)文字通りお姐言葉の猫なで語尾で甘くささやきます。で、さらにかたくななトニーの心を溶かそうと、彼の1番すきな体勢をとる・・・それが「後ろから抱きすくめる」というものでした。トニーは攻める方の筈なんですが、その時の表情がなんとも言えず柔らかで艶っぽい。。。彼の1番の魅力は、と聞かれれば、私にとってはこの時の、この満ちたりた色香でした。

 で、実は監督にとってもそうであったらしく。 「2046」の公開後に、雑誌で何とオダギリジョーと天下の王家衛対談企画、というのがあり。もちろんオダギリ氏はまったく歯が立たず逆に遠慮なく質問攻めにされてたのですが、そのやりとりのなかで。「後ろから抱きしめられるようなのが好き」と答えたオダギリ氏に、監督はあからさまに興味を示し始めます。結果、オダギリジョーのヰタ・セクスアリスは実にあっけなく日の本に晒されてしまいましたが(笑)。オダギリ氏は「花様年華、見ました」と言っていましたから、たぶん、↑こっちは見ていないのでしょう。見ていたら、監督がこのやりとりの中で、オダギリ氏のうちにかつてのトニー・レオンの色香を強烈に感じ取ったのがわかったと思います。鋼のように真直ぐでありながらどこかで庇護される事を求めてやまない魂・・・から、発せられる、同じ、匂い。  その象徴が、監督にとっては、あの、シーンだったというわけで。 監督は、2人目のトニーを、今も探し続けて居るのでしょうかね・・・・

 

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2006年1月 7日 (土)

花様年華

映画館でも見たのですが、DVDでレンタルが出来たのでもう一度見ました。最近、ネットのDVDレンタルにも、私の好きな作品が徐々に増えてきて嬉しい限りです。で、カテゴリ増やしましたvv
こよなく愛する王家衛監督の作品ですが、これは中でも一番オトナの世界、今のほうがより身に染みる(笑)映画です。私がいつもつまらなくて途中で挫折する、小津安二郎監督の作品に、たぶん作調が酷似しています。でもこれは最後まであっという間に見てしまいました。
 おそらく、この映画に出てくる2人のように「一線を越えない」ことに矜持と意義を感じ取り、そこにいくばくかの共感を覚えるのは、私ぐらいの世代が最後なんだと思います。でも、危うい場面のBGMに清順監督の「夢二」のメインテーマを使って、現代の倫理観で見るとなんという事のない場面に艶を持たせたのは良かったと思いますが、さすがの私も、同じ意図で別の場面に挿入されたタンゴのナンバーには、失礼ながら大爆笑してしまいました。映画館で見た時にも確か笑ったんですが、忘れていたので(^_^;)不意打ちを食らって文字通りの大爆笑。オダギリ氏が、狸御殿を見て、3か所ほど声出して笑っちゃいました、と言っていたソノ気持ちが、初めてわかった気がしました。もう、その大仰さをまともに受け止めるだけの素地がこちらにない。タンゴって、私の今の平坦な日常感覚に溶け込むにはあまりにも劇的過ぎるんですよね。それでも、私辺りが、映画の世界をギリギリ体感できる最後の年代なんでしょう。

 トニー・レオンがとにかくオトナで渋いvvマギー・チャンも、もう女性が見ても放心するくらい美しい。そして何より、2人ともごく当たり前の市井の人なので、自分達のパートナーが偶然相手のパートナーと浮気しているとわかった、というその結びつきの不自然さゆえに、互いの気持ちが打ち明けられないんです。そこで。男は、女に自分の書いている小説の相談をしながら次第に打ち解け、やがて小説に出てくる場面のロールプレイングをしてもらいます。男が別に女を作ったなら?男がこのまま仕事で海外に行ってしまったら?考えただけでもつらくなる女は、その役を演じさせられただけで感極まって泣いてしまう・・・こんな形で、男は女に I love You を言わせてあげるのです。私は、一生懸命策を弄する男ってほんとに大好きなんですが、これはもう極め付けv 男の優しさと女へのsympathyが苦しいくらいに溢れ出てきて、こちらまで泣きそうになります。私的には、ここで映画が終わってもよかったくらい・・・(この後タンゴでオドロかされるので・泣)

何度かすれ違いを繰り返し、最後に男はあきらめきれない思いを柱の穴に封じ込めます。こちらには何を言っているかはわからないのですが、その、穴に口をつけて切々と語る時の、レオンの顎と咽喉の動き。ほんとうに官能的で、ぞくぞくします。男がどれだけ女を欲しかったか、その心の奥底に秘めていた熱情がどれほどのものであったか・・・語る喉元の艶かしさに、見ているこちらが熱くなるほどに。 圧巻です。

最後に。せつない、という心持をこれほど丁寧に重層的に描く事が出来るのは、王監督がここまで、「表」の、陽の当たる部分の感情を、文字通り描ききってきたから、だと思います。裏暗い所ばかり見つめていては、闇の重さはわからない、ということで。




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