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2010年5月 3日 (月)

川の底からこんにちは

第19回PFFスカラシップ作品『川の底からこんにちは』見てきました。公式サイトはこちら 

えーと、スカラシップ作品だと知っていて見に行ったのですが、途中何度も、俳優として出演している岩松了さんが撮った作品かと勘違いして見てました。そのくらい、良く言えば手練れの、悪く言えばおっさんくさい映画です。

もし岩松さんが撮っていたなら絶対こうはならなかっただろうと思うのが、終盤に向けての、一気呵成の正統派「〆」です。ここは寸分の隙も見せず、気負いもなく衒いもなく本当にお見事としかいいようがありませんでした。どれもどこかで見たことがある、ある意味手垢にまみれた王道の「死」の表現を積み重ねているのに、これこそがこの監督が描きたかったシーンなのかと思えるほど映画の存在感を増し、前半中盤すべて忘れて最後には「いい映画だった」と思わせてしまう力強さがありました。

逆に、別人ながら岩松作品と似たものを感じてしまうのが、「田舎」というものに対する強烈な、ほとんど業のような含羞と、抗いがたい癒着を内に抱え込んでいるところ。さらにその全てをごまかさんがため、照れ隠しに放ってはスベる笑いまで、岩松さんと同じでした。岩松さんはもうおぢさんですから、少年時代に対する憧憬を「オヤジギャグ」で防御し大切に抱える気持ちはわからなくはないです。でも現在進行形の若い監督までそうなのかと思うと、映像に語らせずセリフで説明してしまう唐突さと相まって、なんだか見ていて辛くなります。栴檀は双葉より芳し、の逆で、オヤジは生まれた時からオヤジ、ということなんでしょうか

その含羞に覆われた癒着の何がいけないかというと、自分のフィールドを客観的に見つめ直せない、あるいは見つめ直すことを拒否する結果、表現として未完成、未熟なままスクリーンに放り出されてしまう点です。対象を描くにも監督の心象を投影するにも全てが未分化なまま終わってしまっている点が非常によくないのです。それがその人の人となり、血や肉の一部となってもはや分かちがたいものであることは百も承知ですが、遠藤周作が切支丹文学を書くにあたり「生まれた時からいつのまにか着せられていた自分の衣を、いったん脱いで調べ直してみた(大意)」と同じような作業は、少なくともそれを題材に描くなら、最低限逃げずにちゃんとやって欲しい。監督こそ頑張れ。中の下人間に頑張らなきゃというなら、監督こそもっと自分自身ときちんと対峙してから表現して欲しいと、そう思わずにはいられません。
日本の「田舎」と呼ばれる社会の持つ精神構造の、多層化と膠着という二律背反は、監督がここに投げ出してきたものほどステロタイプでもなく、説明もいらないほどだれにでもわかる普遍的なもの、でもないはずです。対象のどの部分が監督の目にどう映ったのか、それを映画の中の主人公のように、開き直ってさらけだして描いてもらえれば、それだけで表現として成立します。監督、頑張れ、です。

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