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2006年10月24日 (火)

サラバンド 

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「サラバンド」見て来ました。公式サイトへは写真からどうぞ。

 名匠ベルイマンが最後の作品として(と自分で言ってました)選んだのは、人生の終焉についての考察、でした。死にゆく御大とそこへたまたま訪れた元妻が、御大の息子と孫の確執を抜群のチームワークで解きほぐし、難が終わった後は再び何事も無かったようにばらばらの生活に戻る、という、見ようによってはとても不思議な寓話のような物語。しかし描かれているのは紛れも無く、現代の人間関係の中に浮かべられた「老い」のひとつの姿です。

 私はまず、世代としてとても近いこともあり、御大の息子の物語、チェロを教える父と娘の確執、厳格な御大と息子の確執、の話にとても引きつけられました。父は、妻を亡くした悔恨から立ち直れないまま、娘の才能により固執し妄執し、異常なまでに執着します。その不器用というにはあまりにもゆがんだ愛の形は、彼自身が父(御大)から拒絶され続けた孤独を克服できないでいる「弱さ」から来るものです。人によってはこの「息子」に全く感情を寄せる事が出来ないかもしれないくらい、世間的にはまさに「危険な父親」ですが、でもその「弱さ」を、主に死んだ妻アンナの目を通して、監督は実に繊細に注意深く庇護しています。これがなければ、ほんとうにこの映画は薄っぺらな、通り一遍の、音楽家デビュー物語に成り下がる所だったことを思えば、監督の期待に応えこの人間の闇を一手に引き受けた息子役のポリエ・アールステッド(カールおじさんの人です)の怪演にはまず心からの拍手を送りたいと思います。

 そしてその「音楽」ですが。音楽を通じた2人の人間の確執を描くとなれば、どれだけの旋律が入り乱れる事かと、古今のこの類の映画を見た人なら相当身構えると思いますが。・・・一切、無いです。「サラバンド」だけ。映画は音楽に語らせるのではなく映像に語らせなくては反則、だと思いますので私はこの点でも監督に賛成です。たとえば昨日見た某映画はラストに小田和正の「言葉に出来ない」を流して観客を泣かせていましたが、それがやりたいなら、明治生命のCMを見るまでもなくぶっちゃけ写真一枚で事足りるのです。音楽の力は、それを「借りて」しまえば何だって出来てしまいますが、そのかわり当然の権利として賛辞をもすべて奪っていくものなのです。「借りた」が最後、その映画が表現したものはすべて音楽に乗っ取られてしまう。言いたいことを映像で表さず歌にこめてしまうなら、それは最早映画ですらなく、せいぜい長い長いプロモーションビデオ(笑)でしょう。音楽は「使わ」なくては。
 でこの映画で使われている「サラバンド」という曲は、美しい名前がついていますが、チェリストやバッハ好きならともかく、それほど一般の人が耳にする曲ではありません。とても地味で、堅実で、深い内省を誘うかのように所々に挟まれる七度の音が、いわゆる教会音楽の華やかさとは別次元の哲学的な「崇高さ」をもたらしている・・・のは確かなんですが(笑)、正直見る前は、バッハのチェロ曲なら他に使えるのがいっぱいあるじゃない、とまで思っていました(^_^;) ところが監督は、コノ曲に、この映画で今までどんな演奏家も音楽評論家も思い付かなかった新しい解釈を施しているんですよ。その「崇高さ」を逆手に取った「手の届かない遠く」というイメージ。残されたものの側の寂寥と、その荒漠とした心象風景。どのシーンで使われているのかあえて伏せますが、いや、そう来たか~と私は映画見ながら感動ついでに監督に土下座したくなりました。ゴッドファーザーⅢのラストシーンで、それまでほとんど注目されていなかったイタリアオペラの小品「カヴァレリア・ルスティカーナ」の間奏曲が一躍世界的な脚光を浴びた時と同じ。音楽は映画に「使われて」初めて生きるのです。 
 ついでにいうと、財産だけはある偏屈者の御大が別荘に引きこもっている時、聴いているのがブルックナーっていうのは、これから山場という時に「運命」の「ダダダダ~ン」が流れてくるのとおんなじくらいベタでがっくり、だったんですが(笑)、この日ご案内させて頂いた監督と同じ生まれ故郷のガイジン紳士ははじめて聴いた、いい曲だとおっしゃってましたから、あれが耳タコなのは一部日本のマニアだけなのかもしれません・・・私はワーグナーとブルックナーはコワくて手が出せてません(笑)

 そして最後になりましたが、上の写真は映画のワンシーン、ではなく撮影中の一こまです。公式に行くとこんな写真がいっぱいあります。そして最初のタイトルロールではこの映画は監督の4番めの奥様に捧げられていますが。映画の中で御大の元妻を演じているこの写真の女性は、何を隠そう監督の元愛人、なんですよ~(^_^;)御大が彼女に向けるまなざしと、カメラのこっちで彼女を見つめる監督の目が時々重なって、それを彼女自身が楽しんでいるようにも見えます。役だから演技だからと肩肘張らない自在な出し入れ。阿吽の呼吸。確固たる歩み。刻まれていく共同作業。互いをパートナーとして尊敬しつつも、自分は自分として引き受ける。それがお互いに出来ている限りは・・・社会の中の個、ではなく、個人的な結びつきの中に自分の存在を見出す現代においては、こんなたよりなくものどかな(笑)老いが、生きる知恵であるのでしょう。 
 映画は、切り立てられたように容赦なく残酷で、2人はむしろ老いてなお人生から逃げずに真正面からぶつかっていっているのですが、それでも、その行く末には今まで感じた事のないような穏やかで静かな明るさを感じて、私はほんの少し、心安らぐ思いがしたのでした。

 




 
 

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