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2006年10月 3日 (火)

奇跡の朝

20060825002fl00002viewrsz150x「奇跡の朝」見てきました。公式サイトは写真からどうぞ。

久しぶりに「頭で見られる」タイプの映画でした。感覚や涙腺に訴える映画の多い中、思索・黙想の世界にいつの間にか誘われる心地よさも、なかなか捨てがたいと改めて思いました。映画は、ハコに入ってしまったが最後、終了まで、時空を画面に絡めとられるわけですが、そういった緩やかな物理的な縛りも、こんな時には却って有難いものかもしれません。「現実のある一面」をあぶりだすのに、不思議な浮遊感に満ちた視点を据えてくれていて、「彼我の世界」を行き来するのが本当に愉しいし、面白かったです。

 死者がゾンビのようにたくさん甦ってきたよ、というところからいきなり話が始まります。その蘇生者はミステリーでもホラーでもなく、映画の冒頭から「既にそこに居る人たち」として扱われています。一般人が甦る、という事は、少なくともキリスト教文化圏の人にとってはこの世の終わりまで取っておく最後のお楽しみ、相当に歓喜にあふれた出来事のハズ、なんですが(笑)、この映画の現実の「社会」にとってはそれは全く「予期せぬ余剰人員」でしかありません。人は個人として死を受入れるために、宗教を編み出し哲学を編み出してもう四千年近く(笑)呻吟しているわけですが、ソレが現実には実に「機能的に」粛々と片付けられていくわけです。そして市の役員達はこの大変な不測の事態に対して本当に真面目に取り組んでいるのですが、それだけで彼らは実はいとも軽々と「神を越えた存在」「神無き里の新しい神」となっているのです。そのモンスターぶりには、リヴァイアサンもびっくり、いっそ爽快感さえ漂いますvv この社会においては甦りすらも形而上の対象にはならない・・って、ああ、思い知ったかキェルケゴールっ(笑)
 そしてその、まるで「降って湧いた移民」(笑)のような扱いを受ける蘇生者たちは、個人のレベルではもちろん「いとおしい人」です。しかしそれは彼らが蘇生者に対して勝手に思っていることで、その点でもこれは正しく「死者への思い」に他ならないのです。その個人としての蘇生者がいかに「死者」であるかを端的にあらわしているモノの一つに、彼らの「言葉」があります。私は個人的にはこれがホントに面白かった。彼らは生前の「記憶とルール」に従って単語を並べ文章を編み出すだけ、なんですよ。ソシュールの言語学でいくとパロールは合っているのにラングが「無い」状態。でも言語活動の死、というのはまさしくこういう事ですからね。いや確かに。
 そしてまるで風に乗って現れたかのような彼らは、お互いだけで相談しながら、誘い合ってまたどこかへと消えてしまいます。その時、死ぬ間際にこの世に思いを残した男は、夫がシンパイでたまらない妻は(私はこの人の気持ちがイタいほどよくわかりましたよ・笑)、それぞれつれあいを連れて行こうとする。それはしかしまったくの「個人の事情」。あれほど社会的にはカンタンな事である死が、ひとたび個人にまかされると身動き取れなくなるあたり、その違う位相の間を自由に行ったり来たりしている観客は、いつのまにか「死の意匠」をも自在に眺め渡す事になるのでしょうか。

 最初から最後まで重低音に鳴り響く不協和音がこの映画の世界観を見事に掬い出し、同時になぜかこの世界を「そう遠くない話」として感じさせます。死という事象に関して考えるヒントのたくさん詰まった映画ですから、じっくりと図書館にでも行くつもりで是非どうぞ。

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» 「奇跡の朝」 [やまたくの音吐朗々Diary]
今秋公開予定の映画「奇跡の朝」の試写。第61回ヴェネチア国際映画祭を皮切りに、27もの映画祭を席巻したというロバン・カンピヨ初監督作品。出演はジェラルディン・ペラス、ジョナサン・ザッカイほか。「不思議」と「不気味」の中間に浮いているような作品である。つかみどころが... [続きを読む]

受信: 2006年10月 6日 (金) 00時15分

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