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2006年8月19日 (土)

ジョルジュ・バタイユ  ママン

Maman 「ママン」見たのは少し前になります。公式サイトは写真からどうぞ。

 主演のイザベル・ユペールとはなぜか最近ご縁があって(笑)、写真展も行きましたし、アンリ・カルティエ=ブレッソンの映画の中では真摯な語り手として素の彼女が熱く語るのも見ましたし、今月号のキネ旬ではちょっとびっくり黒澤明監督と対談v・・・そしてこの対談読んで私も、なんというか遠慮なく(笑)レビュー書く気になれました。よかったです、彼女が「サソリ」で(笑)。

 私はこの原作(3部作のひとつです)が映画化されるとチラシで読んだ時、「ああビジュアルで選んだのね~」と思いました。あまりムツカシイ事考えなければ、この話には母を慕う若者、南の楽園、頽廃的な母・・・とまるでヴィスコンティやルコントのような美しい映像が撮れる条件が確かに揃っていたからです。ところが、この映画はなんとそのムツカシイところを前面に押し出してきていまして。それにまず瞠目しました。もちろん映像は美しいし母も息子も美形vですからぼんやり見ていても楽しめますが、気楽に見ていると途中からその重さlまじめさに辟易するかもしれません。稲垣足穂や夢枕獏の描く世界を何の暗喩もメタファもなくむき出しにさらけ出す、そのドライな感じが、苦手な人もいるでしょうし、そうなると単に汚く猥雑な絵にしか見えなくなると思うので。

 私がムツカシイな、とバタイユを読んでいつも思うのは、彼の哲学(?)の根底にある「堕ちていく事への後ろめたさ」です。カトリシズムという強烈な足枷とエディプス・コンプレックス(^_^;)は、バタイユのどの作品にも影を落としていて、それはこの映画にも強く刻みこまれています。だから堕落によって神との訣別とを諮ったり、自身の解放を求めたりするといった、自分自身に対するひどく高尚な「いいわけ」をすわけです。だから堕ちていく事にいつも葛藤と逡巡が付きまとう。そしてそれでもそうせずにはいられないのが「生」である、と喝破しつつもバタイユは悶え苦しむのです。その見た目激しくドロドロで徹底的な堕落vの向こうにある精神の崇高さたるや、人智のたどり着ける範囲を越えています。
 映画では、たとえHをしていてもそこに感じられるのはエロスではなく「結果としての動作」であり、葛藤の具現としての肉体です。そして絵のように見事に頽廃の表れとして人が存在しています。それを単に汚い性とみるか(いや、ホント汚いです)、それをも丸ごと生としてうけとるかという事で悩めば、それがそのままバタイユの世界です。このあたり、私は映像に出来るとはまったく思っていなかったので、驚きと共に心の底から愉しみました。そしてユペールの思索に満ちた目の輝きも、その底に流れる原初的なエロスとの皮肉なせめぎ合いを終始一貫力強く見せてくれていました。先にあげた対談で、彼女が自分を「わにに乗って河を渡るサソリだ」と語ってくれているのを聞いてホッとしたのもまさにこの部分です(^_^;) それを自分のうちに認めているからこそのあの演技だ、と何だかとても腑に落ちたので。

 しかし!バタイユが思いもよらない地球の反対側の小さな島国には、堕落ということに「何の罪悪感も感じない」何にもとらわれず最初から一切を捨てきっている不真面目きわまりない(笑)人生哲学が、一方で神性も失わず、脈々と受け継がれているんですからスゴイですvvそこにあってはそもそも「何で苦しんでいるのか」すらわかりにくいかもしれません。
・・・だいたいそんな事でいちいち悩んでいたら誰ともH出来なくなっちゃうしぃ、それで誰に迷惑かけているわけでもないしぃ・・・渋谷辺りのお姉さま方には正しく一蹴されそうですよね、マジで(^_^;)。

 

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