« M:i:Ⅲ | トップページ | ゲームの規則 »

2006年7月27日 (木)

ラルジャン

073

たいへんに地味な作品ですが、私が今まで一番多くの人に勧めてきた映画です。信仰にゆきづまったクリスチャンにも、クラスが荒れて息もつけない同僚にも、恋人の乱行に苦しむ友人にも、自分自身をもてあましている人にも、そしてもちろん映画を撮る側に関わるすべての人に、薦めてきました。「83分だからほんとに短い映画なんだけど」いつもそう言って薦めていたのですが、その「けど」の部分について今日も又深く考えさせられましたです。

 一番最近この映画のことを思い出したのは「横浜メリー」を見た時でした。あの映画をドキュメンタリーとして撮った監督は、頭の中で考えた話を俳優を連れて来て再現していっちょあがり、という類の映画が、映画館を一歩出たらどれだけ無力に費え去るものか、メリーさんを前にして思い知ったのだろうと思います。その人生に、その人となりに、その人との関わりに「意味を求め理由を探る」事がどれだけむなしいか。あの年若い監督が次に一歩踏み出せば、あるいはこのブレッソン監督に続く道を歩むかも知れないと、その時私は思ったんですね。
 意味を求め理由を探る・・・人は、一番大きな理由としてはまず危険を回避するために(笑)自分に関わる人々をなるべく理解しようと日々努めています。ですから他人の内側を見事解き明かしたゾという錯覚の中にむしろ積極的に安らぎを求めたがります。その行動に因果関係を求め統計を取り心理学を探求し占いをする。自分も含めて、人が何を考えているか、などという事をとことん考え詰めるとこちらの頭がおかしくなってしまいますから(笑)それはそのあたりで手を打つのが一番いいんですが、その時、それは結局「わからない」ということの裏返しであると、つい忘れてしまうんですね。安心していいんですが忘れてもいけない。忘れると「あの人の考えていることがわからない」などとという絶望的なループから出られなくなりますvvあの人もこの人ももともと全然わからない筈、なんですけどね。

 映画は、監督が何かに興味を持ちそれに触発されて、現実のどこか一部分をフィルムという形で恣意的に切り取り再生して「撮ろう」と思うわけです。何がしかのお金と時間と労力をかけ、そのフィルムに映っているものに自分なりの思いや考えを何か投影し表現しようと思う。映っているものにはどんな加工も出来るし、どんな都合のいい絵だって撮れる。他の媒体と違って時間的場所的制約ははるかに少ない。しかしだからこそ、特に人間を描く場合にそこに「意味を求め理由を探る」という落とし穴に陥りやすいんですよ。平たく言うと、監督自身が「わかったような顔をして」撮っているだけ、になりやすい。昨今の現実世界のニュースを見るまでもなく、人がした事というのはそこにどんな理由をくっつけても現実はすぐそれを追い越していくし、理由がわかったところでそれが他の人間を理解する参考になるかといったら、全然ならない。そうしたら、ただそういうのを、わかった気になって安心したいだけですゴメンナサイ、という謙虚さは(笑)人は心の片隅ででも決して忘れてはいけないと思うんですけれどね。他者の尊厳を尊重するという意味でも、です。

 その究極の形のひとつがこの映画だと、私は思っています。人には人はわからない。そこに一切の予断も期待も説明も結論も求めない。そのカ強い意志の下、映画ではただ人がいて、裏切られて、嘘をついて、犯罪者となって、理想に燃えて、人を殺して、人を助けて・・・いくだけです。でもそれが観客には「納得」できる。そこには不自然さも不合理もなく流れるような日常の中に、ただその人間はそのように生きている。そこで起きていることの非日常性すらも日常として切り出す俯瞰の目。それは監督自身の(インタビューでの)言葉を借りれば「正確さから来る力強さです。それは同じものへと回帰します。というのも正確さが力強さとなるからです。仕事に失敗する場合、私は正確ではありません。正確さは詩情でもあるのです」

 この映画はブレッソン監督の遺作となりましたが、次に予定されていた映画の題は実は「創世記」でした。映画のひとつの完成形として、監督の遺志を継ぐ若い才能の出現を、私は心待ちにしています。

|

« M:i:Ⅲ | トップページ | ゲームの規則 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/103190/11036774

この記事へのトラックバック一覧です: ラルジャン:

« M:i:Ⅲ | トップページ | ゲームの規則 »