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2006年3月13日 (月)

陽炎座

 鈴木清順監督作品、1981年発表です。
  私が「嫉妬の香り」でいつもお世話になっている(笑)CATVで先週放映があって、やっと録画して見ました。これは私が学生になってからも、何度かその手の映画館にかかっていたので、それで見た記憶があります。
 泉鏡花が原作で、もちろん読んではいたのですが、当時映画を見ながら物凄い既視感に襲われ続け、アノ映像を見てソンナ風に思う自分に1番びっくりしました(笑)。で、笑い事ではなく、それが実は、私にとってこの映画の世界に遊ぶ為の鍵だったのでした。後の時代にこの面白さが伝わっていくのか、私にははなはだ疑問ですが、ちょっと書いてみようと思います。

 主人公の松田優作がある人妻(大楠道代)と恋に落ちます。ところが彼女は、瀕死の妻を持つ松田氏の恩人(中村嘉津雄)のお妾。本妻はもともと恩師が留学先で知り合った金髪碧眼の外人女性(春婦)で日本での苦労の末に床に伏せっているのです。さらに大楠さんは「三度お会いして、四度目の逢瀬は恋になります。死なねばなりません。」と松田雄作に心中を誘う手紙を金沢からよこします。行く汽車の中で「妾が心中するらしい」と嘯く中村氏に、この夫婦にたぶらかされているのかと松田氏は疑念を抱きます。金沢へ着くと、もう死んだはずの本妻が大楠さんと一緒に夜船に乗って遊ぶ幻。「陽炎座」という小屋で中村氏と大楠さんに出会っても、松田氏はもうすっかり恋心はさめています。ところが本妻の心の内が子供田舎歌舞伎で暴露されるうち、大楠さんがまるで後追い心中のように身を水桶に沈め、歿します。一人残される松田氏・・・あらすじはこんな感じです。

  で、どのあたりが既視感を覚えさせるのかというと、ふんだんに出てくる伊藤晴雨ばりの緊縛絵図や、他の映画で使っていたそのままのセット(笑)ではもちろんなく、「この話ではないけれどこういう映像は見た事がある、よく知っている」という、いわば映画全般のトーンとか、テンポとか、人物像の描きこみ方に対する「既視感」だったのです。
で、それをどこで見たか。それが実は、漱石や鴎外、鏡花を読む人が、読みながら頭の中に思い浮かべるその、映像だったのでした。
私達は、生まれた時から物事は映像で見せられ映像で撮られ、映像作家も自分が見た「映像」を元に絵を作り出しています。でも清順さんが青年だった頃は、まだ観る人の情報源は活字がメインで、小説ももっと普通に娯楽として読まれていて、「文化」の髄にはブンガクが位置していたんですね。だから清順さんが映画を作るにあたって意識したのは、当然のように観客の頭の中に在る「本から出た映像」だったんです。

それはもう、読んでる人にはわかりすぎるほどわかる「漱石」であり「鴎外」。特に漱石は、私に言わせると書きたいテーゼが先行しすぎて小説としては癖がありすぎる人です。人物描写や背景などはまるで現代劇の真っ白な舞台のように書き飛ばしたまま、人物の会話も、道にヌッと立っている電信柱が電線で繋がれているようです。確かに骨太で哲学的で示唆に富んだ繋がりではありますが、だからってその電柱を「道で話し込んでいる2人」と思えといわれても、それは言うほうがムチャです(笑)。でもそれを「イイ」と思う人がいて、今もそう思う人がいるので、監督も映画の中ではたくさんの「電信柱」を出現させているのです。そのすかすかした感じが自分の頭の中の映像速度としっくり来る、という人も昔は多かったわけです。
そして鹿鳴館で踊るステップにあわせて靴の先の刺繍がきらめく、そのかすかな光の様子まで美しく思い浮かべられるような鴎外の「小説」は、確かに小さな説でしかない。もう一人の恩師の妾加賀まり子さんと松田雄作さんをメインとして展開するこちらは、映像文化で育った人にもわかる部分があるかもしれません。でもわざわざ自分を古来の土壌から切り離し「創生した」美のもつ胡散臭さ、不確かさ、まつろわなさがそこにある。それが時にどうしようもなくあざとく、作り物っぽく安っぽく見えるわけです。でも今様のリアリズムはひとまず置いて、監督は観客の頭の中の絵に対して戦いを挑む。私が見た事がある、と思ったのも、「門」や「うたかたの記」を読んでいる時に私の頭に流れていたのと同種の映像が、まさに目の前で映画になって組まれていたから、なんです。

映画全体が「読書のペース」で進む。漫画のカットのように、悲しい部分になると「何ともいえない」という記号をあらわす横顔が出現するのではなく、きちんとそれが言葉で示され、あるいは言葉で裏打ちされた動作が入る。そして「本の挿絵」のような絵が入り、映画観る人はいつものように、その絵によって自分に頭の中の絵を補完する、わけです。

漫画に代表される、言葉はすべて内包されているという「約束」だけで成り立つ映像を見せられ、実際には言葉を取り上げられながら育った人には、この清順さんの映画は映像として意味を持たないと思います。その人たちにとって、言葉を介在しなければならない映像は映像としての存在意義がないからです。「見てすぐわかる」のでなければ意味がない。

でも。それでわかることなんて、
はっきり言って、たいしたことじゃない、です。

そうやって
映像の利点に、映像の力にだけ頼っていると、

そのうち

「だから映画なんてくだらないよ」と、

言われるように、
なるんじゃないんでしょうか・・・・ね。



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