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2006年3月 1日 (水)

「海を飛ぶ夢」

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今日、←映画の上映会をお手伝いして来ました。
公式サイトはこちら  公開されたのは昨年でDVD出ています。


 お手伝いした場所は、とある修道会付属の施設です。そこで友達がシスターをしているので今回呼んでもらえたのです(そうでなければ俗人の見本のような私には一生縁の無いトコロです・汗)。そして映画の鑑賞ももちろんなのですが、公開当時話題になったように、この映画は「安楽死」という、特に自殺の禁じられているカトリック教徒にとっては果てしなく重い問題を扱っているので、映画の後の茶話会はいつまでも尽きる事がありませんでした。

 いきなり映画の感想からいくと、肢体の動かない、顔だけの演技を強いられる主人公を演じた俳優が、大変な名優でした(スペインでは超有名らしい)。そしてこの俳優によって描かれる「安楽死を望む人」は、今まで描かれた死を望むどんな病人よりも、哲学的で、理性的で、しかも地に足のついた現実的な考え方をする人でした(実在の人物がモデル)。安楽死について今までに交わされているさまざまな感情論・道徳論を初めから飛び越えて、「その先へ」と問題を一歩進めただけでもこの映画は見る価値があったと思います。
 安楽死を認めて欲しいという意見表明をした主人公の周りには、考えうる限りのさまざまな人物が登場します。みな、止めようとするのですが止められません。自分も死の病に冒されている写真の女性だけが「死を望む気持ち」を分かち合うことが出来たのですが、彼女自身も、計画を遂行する前に病に倒れます。会場には司祭様も何人かいらしていましたから、肢体の動かない車椅子の司祭が、まことに伝統的な教義にのっとった「自殺否定説」を展開するくだりでは、私のほうがヒヤヒヤしました。


 で、この司祭も含めて、この主人公の自殺を止めにかかる人物は皆、自分が「止めて欲しい」人ばかりです。彼を止める事によって自らも救われようとする、切なる願いがその後ろに見え隠れします。生きている時、人は様々にお互いに影響しあい、支えあいます。ですからつい、その延長で、人の死に際しても、互いに影響を与えあい、支えあうことが出来る・・・と思いがちです。いつものように彼を支える事によって自らも支えられたい。しかしそれが例え選んだ死であっても、死に向き合った人の前に人の力は及びません。止めようと思うことは自然な行為ですが、突き詰めて考えるとそれは止める人の魂の平安には役に立っても、死に向かう人にとってはただ独善的でうるさいだけの、死とはまったく次元の違う、ある意味自分の事しか考えていないあさましい行為です。特にこの映画では、主人公の死に対する姿勢が首尾一貫してブレないだけに、周りの人の身勝手さ、傲慢さは殊更に浮き彫りになります。世間的に見れば、皆まじめで真摯な「いい人」なんですが。そして彼らはこの先も「生きる」人だから、そうやって生きていけばいいのですが。
 逆に考えればすぐわかることです。では彼が気持ちを翻し、皆の言を入れて死を望むのをやめたら、その後その人たちは彼にいったい何が出来るのでしょう。「よかったね」とヨロコんでそれで終わり、でしょうか。彼自身の魂の平安はそこから先誰が保障してくれるのでしょうか。「支えてあげる」と無責任な事を言いながら、give&takeですらなく、いざ頼られれば、この壮大な問題について彼をこれっぽっちでも支えられる人は、この世に一人もいないのです。死は、他の一切の事柄と違い、どこまでもあくまでも彼自身の問題で、相談相手として有用なのは神ぐらいしかいない領域の話なのですから。

 

 生きていく事の傲慢さを自覚した人、自らも謙虚に死に向き合う人の言葉だけが、彼に寄り添うことが出来ます。裁くことも支えることもせず、お互いはお互いにそばにいるだけ。教会ではそれを「祈る」と呼んでいます。人に出来ることは、古今東西、老若を問わず、祈る事、それだけです。ただそばにいる、それだけ、ですが。









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