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2006年2月 9日 (木)

春の雪

 学生の時、第一外国語の英語の先生が学習院の高等科でも教えていて、話のついでにふと「三島由紀夫の息子が昔、クラスにいた。綺麗な子で、いったい将来どうなっちゃうんだろう、と思うような浮世離れした美男子だった」と話してくれました。後年、ある展覧会で、教えてくれた人がいて、遠目でその「息子さん」を拝見しました。長い睫を伏せがちに、すっと切り取られたような顎を心持ち引いて「45度うつむき加減に」展示をじっと見つめる怜悧な瞳はvv確かに「見ているこちらが己が卑しさを恥じ入らずにはいられないような」美しさ、でした。先生方の心配をよそに(笑)ちゃんとまじめな勤め人になっておられましたが、会社タイヘンだろうなぁと凡人の私は本気で心配しましたよ・・・(姓は三島ではありません・念のため)
 「春の雪」の中でその父上が書いた主人公、清顕も、まさにそういう「美少年」です。加えて、戦前の公爵家のお坊ちゃまですから、自分の美しさを知っている。自分の存在そのものが、まるで他をあざ笑うかのように圧倒的な、悪魔的な美しさだという事を知っていて、それを当たり前と思い誇りに思っている。少年とはいいながら、そこに素朴さや純粋さはかけらもなく、ただ生き方も含めた、美しい男のあるべき「スタイル」を追求する事にのみ、「若者らしい」情熱を傾ける。それを例えば普通の人がやったら「時空警察」の十文字刑事のように「気の毒が服着て歩いて」しまいますがvv美男子は別です。つまりそれだけの完璧な美男子に生まれついたからこその、清顕の性格であり、矜持であり、女に対する態度であり、幼さ、であるのです。

 何を長々書いているかというと、原作を読んでいる時には正直すっ飛ばして読んでいた(笑)清顕の容姿に重ねられる絢爛豪華な美辞麗句が、映画見終わったあと、突然堰を切ったように思い出されたのです。それがこの作品にとって、どれだけ重要なファクターであったかという事が、視覚で見せられて初めてわかったというか。2才年上の幼馴染が少女から女へと窯変し少しも怖じるところがないのも、友人が友情の度を過ぎた献身を見せるのも、彼を育てるべき養育係が彼の前に出る度、卑屈な惨めな気持ちになるのも、それぞれの内面が要因の半分だとしたら、外的要因はすべて「清顕の美」。それも、決して清廉潔白などではなく、たとえ毒を懐に抱いても尚曇ることのない、突き抜けた美しさです。そのありえないものを「在る」とする虚構から,この話のすべては始まり、最後もそこへ収束していく。。。。

 行定監督は、地に足のついたごくまじめな監督ですから、目の前にいる人間から虚構の存在を引き出すということ自体、難しかったのかもしれません。日本文化や日本の自然の表す美しさ、女性の持つ美しさなら、虚実折り混ぜ実に巧みに映像を重ねて、何倍も美しい「絵」に仕立て上げる事が出来ても、今までに男を美しいとは思ったことのない人には、目の前に男がいてもその美しさを描き出すことが出来ない、という事なんでしょう。妻夫木さんは悪魔のような、というより天使のような美少年ですので、この壮大な話を引っ張る毒もなければアクもない方ですが、例えばそこで、宮様役をやっていたミッチーを引っ張ってきたとしても(私は最初この人が清様だろうと思っていました)、行定監督はたぶん、妻夫木さんとまったく同じカメラワークでまったく同じ絵を撮り、同じ映画にしてしまっただだろうと思います。行定監督的映画の美学は、その「先」にある、わけですから。

別に原作に忠実に映画を起こす必要なんて全然ないですし、今回は細部にわたる映像美にただただ圧倒されwましたが。
感想は・・・映画を見て、原作のよさがわかった、という事でここはひとつm(_ _)m



 

追記:篠山紀信さんが撮ったオダギリジョーは、誤解を恐れずに言えば、この清さま的唯我独尊に満ち溢れた、まさしく「慇懃無礼な美しさ」でした。あの写真を見て真っ先に思い浮かべたのは、「聡子とキスしている自分」の美しさに酔いしれる清顕の姿。でもさすがにこれをスクリーンでやり通すほどのヤラしさは、オダギリ氏にはないんだろうなぁ・・・

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