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2006年2月 8日 (水)

ミュンヘン

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「これをスピルバーグ監督が撮るのは何故だろう」去年からずっと公開を待ちわびていた映画に、今日やっと行ってきました。以下映画の内容が手に取るように分かるほどスゴイネタバレです。
公式サイトはこちら


 公開前から、アラブ側からもイスラエル側からも「実際はもっと相手は酷かった」と猛烈な突き上げが来て話題になっていました。スピルバーグはシリアスを撮る時でもエンターテイメントとしての映画を忘れない人です。なので、いやこれはひょっとして政治背景は一切避けて、ど派手な銃撃戦メイン?と私は実のところちょっと構えて見に行ったのです。
 そしたら。まず派遣される暗殺者達がびっくりするほど素人、でした。写真の5人が暗殺チームなんですが、「何で僕が選ばれたんですか」「チャールズ・ブロンソンみたいな、いかにもな奴じゃないからだよ」という会話があるように、そして本当にそれが理由だろうと思えるほどに(笑)ふつーのお兄ちゃんであり窓際の親父さんたちでした。違う分量の火薬を売られても気づきもしないで大爆発させてしまうし、殺人現場の後処理にいっても薬莢だけ拾って帰ってきちゃうし、2体1で狙いながらご丁寧にターゲットの正面から構えて「何故狙われているかわかるか!」と震え声で叫ぶ。それはもうアタシが代わりに撃ってあげたくなるほどの苦しみよう、軍務経験者とはおよそ思えないし、こんなヤワな魂の持ち主にこの仕事は無理がありすぎる・・・
 そこでハタと気づいたんですね。実際のヒットマンたちがこんなに牧歌的であるはずが無い。これはスピルバーグの取った手、だったのでした。世界には血の中に憎しみが刷り込まれている民族もいればそうでない民もいる。そうでない民族に、この血で血を争ってきたアラブとイスラエルの話をわかってもらうためには、観客と一緒になって問題の根の深さ・複雑さをだんだん理解していく主人公が必要だったのです。途中、ありえないくらい人道的でお間抜けで心優しきヒットマン達は、プロならしないような余計な苦労をしながら、そしてプロなら流さないような「涙」を流しながら、1人、また1人とターゲットを倒していきます。そうしてただアラブのヒットマンを倒せばよかったはずが、モサドを、KGBを、CIAを相手にしなければならなくなるにつれて、観客にも、民族の戦いの重層構造が見えてきます。

 アラブ人ターゲットを護衛するアラブ人ボディガード達と主人公達が、偶然か故意か(笑)同じ部屋に泊まります。主人公はそこで初めてアラブの民の心の内を聞きます。当時はそれこそN.Y.Timesを筆頭にネガティブキャンペーンの嵐でしたので、文化も生活も低俗なアラブの民はイスラエルに国を追われて当然だ!というのが主人公の意識です。でも誇り高いボディガードは、それでも、と言います。「俺が死んでも、孫の代にはきっと家に帰る。」あんな不毛の地のどこがいいのだ、と問われれば、目に涙をにじませながら「そこがおれの家だ」という。殺人指令の合間に、ショーウィンドウのキッチンディスプレイを眺めて「家」を思う主人公は、その時初めて彼に共感するのです。金で情報を渡してくれるイタリアの田舎農夫(=国家から独立した情報屋の親玉)も、金や国家のためでなく、「妻子のため」働いている主人公に温かく共感し、見守ってくれます。
 一方、任務を終えた主人公は、もう軍には戻ろうとはしません。いろいろと「知っている」彼を上層部はしきりに囲い込もうとしますが、彼は首を縦には振らない。「君の居場所はこっちなんだよ。さあ、家に帰っておいで」と言われて主人公はこういいます。「では遠来の客として、あなたをもてなさせて下さい。我々ユダヤ人としては当然のことです。」しかし上官は、ゆっくりと首を振る。彼の言う「家」は、ユダヤの「家」ではない、とこの時やっと主人公も悟るのです。全世界のイスラエル民族に帰るよう呼びかけられた「家」は、もはや家ではなく、「国家」という狂気に満ちた化け物になってしまっているのだと。そこで誓われる忠誠心は、ユダヤの高潔とも、民族の誇りとも、まったく無縁のものなのだと。
 そしてその、彼らの背景には、マンハッタンと、あの「ツインタワー」が。。。。

 わかりあえる道を模索しよう、などという軽々しい口を封じるだけでも、この映画は世の人々に物凄く貢献していると思います。わかりあえない、と認識することが、他者の尊厳を認める第一歩、だからです。そして「分かりあえる」などとは思ってもいない、その現実を一番骨身にしみて感じている、スピルバーグが監督するからこそ、その「痛み」が粛々とこちらに感じられるのだということも。
 映画の中には、断続的に、あの年ミュンヘンで起きた事件の一部始終が出てきます。人質全員の射殺が報じられた日、私の父母は、食後に祈ろうとして言葉が出てきませんでした。母は泣き崩れていました。でも私と妹は、手を組み、目を閉じながら、見たいテレビの時間が迫っているのにひたすらハラハラしていました。何が起きたかは分かっていましたが、自分も将来その人たちのために泣くような事があるのだろうか、とただぼんやり考えていただけでした。そして今日、飛行場で、手足を縛られ無抵抗のままマシンガンで蜂の巣にされる選手達を見て、自分が泣いているのに気が付きました。もう大人ですから、泣いている場合ではないという事は、イタいほど分かってましたけれど。泣くよりほかにすることがあると、それはもう充分すぎるくらい充分、分かってはいた、んですけれどね。



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