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2006年2月25日 (土)

鹿鳴館

st04 今年が初演の劇団四季のお芝居です。於:自由劇場。
公式サイトはこちら。



見てみたいと思ってはいたところへ、誘って下さる方があって、今日、急遽行ってきました。原作は三島由紀夫。劇団四季の主宰者浅利慶太氏は三島の友人でしたので、その劇団が、この華麗なる心理劇をどうやって板に載せるのか、とても興味があったのです。浅利氏渾身の意欲作、だと思います。

 四季がやるのですから、当然主眼は「鹿鳴館」の再現、現代舞台美術の最高レベルが惜しげもなく披露される・・・と思ったのですが、まずそこからして違いました。意匠も背景も人物の彩り程度に添えられ、踊りのシーンすら一切無し。舞台では滔々と会話劇が進みます。浅利氏は三島が目指した近代演劇を、こういう、いわば実力勝負の形で表したかったのでしょう。
 でも、せりふがいかにも長い。あれは長すぎです。私は元の小説のせりふがわかるので、あれとこれをこう繋げたんだ~という余計な(笑)楽しみがあったから良かったようなものの、舞台の上で、ほとんど何の動きもなく、5分も10分もしゃべり続ける人に集中するというのは、正直疲れます。それと、小説だから何行にも渡って人物描写をし各登場人物を際立たせる必要があるのですが、芝居は、実際に人間がそこに立っているわけですから、その次の段階から始めるものだと思うんですよね。例えば朝子という登場人物が、朝食卓に飛んできた小鳥のように「何をしても許される」人なら、そのように作って演じればいいので、せりふで「・・・のような人」と言われても、三島の言葉の美しさは響いてきません。その部分の描写の美しさ芳醇さが、確かに三島の素晴しさ、ではありますが、逆に言えばそれを具現化するのが役者、なわけで、言葉を味わいたいなら朗読劇にすればいい。実際、第一幕は本当に本でも読んでいるかのような単調さで、よくみなさん寝ないで起きているなと(笑)お行儀悪く感心してしまいました・・・私などは学生の時の国文学演習のゼミを思い出して、余計に眠くなりました(^_^;)
さらに登場人物にかこつけて、三島が自分自身の考えを吐露する場面もいくつかあります。これは彼のどの作品にもあるのですが、本人が書いておきたかっただけで登場人物の造詣とはおよそ無関係です。芝居として組み入れるなら別の拵えが必要な「素案」の部分ですが、それをまたそのまませりふで語る・・・何だかうどんが生のまま丼に入って出てきたような違和感です。原作は確かに論理的思考を美辞麗句で際立たせるという離れ技が醍醐味、なのですが、それを生かそうという浅利氏の熱い思いが、冗長なせりふとなるのなら、これはもう裏目に出ているといわざるを得ません。

つまりこの本を芝居にするなら、描けるところは案外少ないのです。三島の流麗な修辞の森をかき分け押しのけ、道をたどって出て来る「ドラマ」の部分は、いくらでも膨らます余地のあるごくシンプルな話なのです。その、登場人物の「外側の描写」を切り捨て「内側の描写」を書き足して初めて、「芝居」に耐えうる「人」が立ち上がってくる。影山伯爵が心の内に抱える荒涼とした闇が舞台いっぱいに広がり、背筋が寒くなるような最後のシーン。「鹿鳴館」で一番難物のこの伯爵の心情をここまであばき立てて見せた日下武史氏は本当に凄かった、と思いますが。他の人はともすれば三島の地の文そのままの重厚長大なせりふに押し流され、そこまで手が回らなかったのではないでしょうか。

この芝居を見て、昼ドラみたいだ、と喝破した人がいました。まさしくその通りだと、今は私も思います。芝居の最後に出て来る三島由紀夫の写真、あの何とも孤独なまなざしに、真正面から応えられる作品に、どうかこれから仕上げていって欲しいと、本当に、心の底から、思った芝居でした。

 

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