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2005年12月21日 (水)

ジョニー・デップにない良さを

 見た映画を並べて今年を総括したつもりでしたが、年の後半を今年はすべてオダギリジョーに攫われましたので(笑)、やはりオダギリ氏について語っとこうと思います。
 その前にタイトルですが(笑)、もし私がアル・パチーノの出ている映画を観ていなかったら、私はジョニー・デップの現在を好きにはならなかったと思います。同様に、カルトでコアなデップを愛していたからこそ、オダギリ氏のある部分に強烈に魅かれているのだと、これははっきり自分で自覚しています。

 私はデップの出てる映画、監督した映画は観られる限り観ていますが、ファンの風上にも置けないというか(笑)いつもどれもが好きというわけではありません。一番好きなのは、誰も知らない「デッド・マン」という映画で(これだけはDVDも持っているv)、あと「シザー・ハンズ」とか「妹の恋人」「耳に残るは君の歌声」「ショコラ」と続きます。ホントは「ギルバート・グレイブ」とか「パイレーツ・オブ・カリビアン」「チャーリーと・・・」を挙げれば皆さん「ああ!」とわかって下さる大俳優ですけどね。いえ、後から挙げた映画も傑作だと思いますし大好きですが。
 私はこの人の、熱烈なナルシストぶりがとても信用できるのです。その跪かんばかりの自分への愛、自分という器を育て愛し作り上げていく、職人レベルの技術と熱情と根気と忍耐・・・役者としてこれほど信頼できる人はいません。どちらかというと感覚的・形而上学的な行為なので、その熱意を「形」にする過程で「わかりやすさ」を求めると、世俗の雑多なものに紛れて雲散霧消、でも彼自身を純粋に前面に押し出すと「よくわからん」映画になる(笑)。でも彼は「よくわからん」を怖れずに、自分に忠実に、コアな映画に出続けた。その蓄積によって、彼は「パイレーツ・・・」でも「ピーターパン」でも、ありきたりの「主役」にならずにすんだ、そう思っています。今日買ったテレビ雑誌のインタビューで彼は「(商業映画的大スターにもなった事について)良かったのは、僕を応援しているファンがそれを恥ずかしがらなくてすむようになった事v」と笑っていますが、できるなら、主役をはる、というのは演技者として本当に大事なことだと思います。
 話はさらに飛びますが(笑)、何故主役を張る事が大事か、それにいつジョニー・デップが気づいたか。それを私は勝手に「フェイク」という映画の中でだっただろうと思い込んでいます。この映画で、デップは潜入捜査官としてアルパチーノとわたり合うのですが、スクリーンに映っている彼らを見て、デップは自分の卑小さ、お手軽さをまざまざと見せつけられたと思います。私でもわかるくらいですから、あれだけ探究心の強いデップには、我慢ならない「対峙」であった事でしょう。そしてその差が、どこから出てくるのかも。つまり、自分に出来ることだけ、自分の可能性だけを探っていたら、結局それだけのものにしかならない、それをわかってその地位(脇役・カルトな役)に「甘んじて」いた結果が、多分デップと同じかそれ以上に自分を愛する「アルパチーノ」との厳然たる違い、なのです。上に述べたような理由で、本当はアルのような役者は、個性俳優として脇で煌めいている・・・方が楽、だった筈です。でも彼は主役級に挑む。主役は、もてるすべてをさらけ出し、何もかも真っ向から「受けて立つ」のが仕事です。自分に出来ようが出来まいが、全存在をかけて「居る」事が主役の仕事。自分が大事だったら、心の内に土足で上がりこみ、すべてを粉砕して立ち去っていく奴らの相手など御免こうむりたい筈なのです。でもアルは、出る度毎に粉砕された自己をかき集め、さらに新しい自己を創生する事をいとわない。そこまで深く自分を愛し、信頼しているのです。だからこそ培われていく風格と大きさ。まさに身を切るようにして。ほんとうに、凄い、ことですが。

 ここでやっとオダギリジョーの話です(笑)。前にも書きましたが、私は彼の出る映画が全部好き、というわけではありません。そして、私が上で勝手に決めつけている「フェイク」のような作品が、オダギリジョーにもあります。「血と骨」です。オダギリ氏が凄いのは、ここで彼は北野武に全然負けてなかった、という事。「フェイク」でデップはまるでチンピラにしか見えなかったのに、たけしさんに対するオダギリ氏にはまったく卑しさ、卑屈さが無かった。本人は主役という仕事は嫌いらしいですが、デップが今大きな映画で一生懸命体得しようとしているものを、オダギリ氏はここまでの間に既に身にしみ込ませているんですね。本人は、デップ同様自分が一番大切で、どこまでも自分だけを追及し、楽な映画、面白い映画に出て、それで映画の活性化に繋げようと思っているフシがあります。しかし彼が気づかずに、おそらく何度も粉々に砕かれた自分を人知れず拾い集めた結果手に入れた「ゆるぎない核」の部分、そこから巧まずしてにじみ出る力強さ・正しさ・美しさ・・・誤解を恐れずに言えば、これがデップにはなくて、アルにはあるものであり、映画という媒体にとって無くてはならない主役という「格」なんです。「血と骨」のように、誰かがきちんとスイッチを入れればたちまち大輪の華となって怒涛のように他を圧倒する役者。それをオダギリ氏がどんな条件でも、例えばSHINOBIでも出来るようになってくれれば、と一邦画愛好家は心の底から切望するのですが。

来年の映画だと、たぶん、「ゆれる」がそれに当たるだろうと期待しています。が、やっぱり「その他」の映画にも出ないとオダギリ氏、息切れしてしまうのでしょうかね。仕事が趣味。自分が一番好き。だからそれは当然だと思いますが。できることなら自分に備わった力を120%発揮する場に、なるべく多く出て早く自分に気づいて欲しい、と、映画のために、彼自身のために、私は切に思います。














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