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2005年12月12日 (月)

どこまでもアニメーション

the_sky_crawlers最近、「純文学ってこういう感じですか?」という難解な(笑)コメントと共に、私にこの本を紹介してくれた人がいました。全五部作らしく、今はこれに続く「Not but air」「Down to Heaven」まで出ています。装丁に(私的に見て)贅を凝らしてある本は、私は必ず買っています。そういう装丁を許した字書きさんとは、たぶんセンスが合う、からです。逆に、本自体の美しさに鈍な作家は、それだけですべてに鈍な感じがして、特に長々つき合わされるのはご免蒙りたいんですよね。で、この3冊は借りてすぐ自前で買いました。とても面白くて、あっというまに読了しました。愉しかったです。

で、ここで答えるのもどうか、と思うのですが(笑)これが純文学かと言われれば、それは全然違う、と断言できます。でも、別に純文学がエラいと思っているのは(今も存在しているなら)文壇の人たちと出版社の人たちだけなんですから、そんなに気にしなくてもいいと思うんですがね。面白ければ読者は買うし、それに、いつもいつも読書によって自分を切磋琢磨しなくてもイイんではないかと思うので。

タイトルの意味ですか?アニメーション的描法というのはいわゆる「ブンガク」とは本当にまったく対極にあるから書いたのです。簡単に言うと、書きたい物事を外堀から攻めていって本丸は書かないのが「ブンガク」、天守閣だけをポコリと切り取ってあっさり提示するのが「アニメ」です。この本を読んでいると、戦闘機独特の飛行の描写が、かなりマニアックに(ワクワク・笑)何度も出て来ますが、この単語の羅列の意味が本当に追える人には、飛行の軌跡は思い浮かべられても、飛行機本体は実感できません。当然です。その部分は作者が「外堀」と考えて切り捨てているからです。だから例えば同じく荒唐無稽な飛行機映画でも(こら)、この本を読んで思い浮かぶのは「トップガン」ではなく「紅の豚」の方なのです。

アニメーションは、たった一度具体的な絵を提示するだけで、すべてを「そこだけにあるリアル」に変えてしまいます。その切り取られた空想世界のリアルさの前には、それ以外の世界は無意味です。これを文章に置き換えると、登場人物の描写、心象風景はすべて一言の元に鮮やかに切り取られているので、こちらは出されたものを鵜呑みにし、そのレールに乗って遊ぶだけでいい、という事になります。自分で咀嚼する必要も勘案する必要も全然無いわけです。頭使わなくていい(笑)。

でもそれは、エンターティメントとしてはとても評価されてしかるべき特質です。純文学なんていうものにこだわらなくても、作家さんはとにかく自分の書ける範囲のものを書けばいいのです。それで読者の思考パターンが単純化・短絡化しようが、そのうちに表現手段を失った自己が崩壊し形骸化しようが、それは、はっきりいって作家の知ったことではない。ゲーム然り、ノベルズ然り、もともとこういう「愉しい」系の本だけを読んでそれで事足れり、とする人には、それ以上の人生はないわけですから。

子供を持ってわかったのは、この刹那的読書という弊害の萌芽は、実は小学校の読書指導にある、という事でした。読んだ冊数を競う!何と野蛮で似非文化的な指導なんでしょうか(笑)。子供にやたら本を読ませようとする人は、絶対自分が本を読んでいない人だと思います。英語の苦手な親が子供に英会話を叩き込むのと同じこと。たくさん本を読んだ人は、その後どうなるのか(笑)身を以って知っているから、読めばいいってもんじゃない事もよくわかってるんですよ。本に逃げるくらいなら読まないほうがいい。相手はいつも現実です。




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