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2005年11月

2005年11月30日 (水)

12/25のドルパ

ブース番号が発表になりました。
190-Sです。
当日は、たけ様のお洋服の委託と
よこひ師匠の小物他の委託
あと、オフ会の皆様の総力を結集したv
ガレージセールがあります。

たけ様の出品予定一覧は こちら
サイトは こちら
是非ご覧下さいm(_ _)m

よこひ師匠のお作
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スカートは言わずと知れた13少年用(え゛っ)





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わらじもタバコもMSD用があります(未成年者の喫煙は・・・の注意書きがあります・笑)






当日是非手にとってご覧下さい。








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2005年11月16日 (水)

いつも一言ですませてすみませんm(_ _)m

先週から、一緒に借りてる人の手伝いでちょこちょこ行っていたのですが、明日から11/23まで、私自身の仕事でまた仕事場に通い詰めになります。
あそこに入ったらネットには繋がないと誓っているので(!)ココはお留守です。メールだけは携帯経由で見ます・・・
あー無事クリスマスが迎えられますように。アーメン・・・

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2005年11月 9日 (水)

メゾン・ド・ヒミコⅡ

都合7回観にいったのですが(笑)今週で都内の公開は終わるので、最後に見てきましたv何でこんなに通いつめたのか、8回めにして今日やっと、わかった気がします。

今日は水曜で女性1000円なので、いつもはCPが多い映画ですが、どちらかと言うと私と同じおば様多目、の日でした。そして子を学校に送った帰りで比較的まともな格好をしていたのが災いしてか(こら)、知らないおば様に話しかけられました。私は小さい時から引越しが多かったので、初対面だろうとなんだろうと、たいていの人とは愛想良く話すことができます(でも、基本はオタク・笑)。このおば様は、本来韓国映画ファンで、でも今日は友達の誘いも断り勇を振るって、ちょっと違ったジャンルの映画に挑戦してみようと思ったんだそうで。既に受付のお姉さんと顔なじみになってた(笑)年の近い私に、どんな映画なのか、どこがいいのか聞いてみようという事のようでした。

うーん、しかしごく普通の家庭の、お嬢さんも成年というおばさまに、この映画は面白い、んでしょうか?おばさま、今日はお友達のお誘いに乗ったほうが良かったんじゃ・・・(殴)そして思ったとおりというかなんというか、お互い見てる映画も全然違い(^_^;)・・・話を何とかあわせていると「どうしてそんなに何回も見にいらしてるの?」という話になりました。まさか年甲斐も無く、ひたすらオダギリジョーが綺麗だから、とも言えず(笑)、私はつい「柴崎コウさんが好きで。」と答えました。この映画を、田中さんと柴崎さんの父子愛の話としてみれば、このおば様にもわかるんではないか、とも思ったのです。介護やその家族の話題は、きっとこの年頃のおば様の生活範疇には入っているはず・・・

でも映画が終わって映画館を出たら、またまたこのおば様につかまってしまいました(笑)。「難しかったわ~どういう風に見たらいいの?」現代美術の得体の知れない展示の前でよく受ける、その同じトーンで質問が(笑)。そこまでカルトな映画だとも思いませんでしたが、まぁせっかくの1000円をいい思い出にしてあげたいという老婆心から私は「たとえ体のつながりが無くても、いい関係でいられるのっていいですよね」というようなまるで乙女な答えをしてしまい(恥)、そしたらおば様はそれを瞬時に理解して(笑)速攻でパンフレットを買いに走って行かれましたvv(中の人、私に感謝してください・笑)

で、その後姿を見ながら私は唐突に、自分が今まで本当に、柴崎コウ演ずるサオリを見に来ていたのだ、という事に思い至りました。映画の中で、喪失を目の前にした春彦の気持ちはイタイほどわかるし、最後に歌う「♪母は涙を浮かべていた」では、やるせなさ、切なさを澱のように湛えた「生きる哀しみ」がひしひしと伝わってくる・・・それを観にいっていたとばかり思っていたのですが。
実際は、ほんとのところ私は、サオリがうらやましくて仕方が無かった、んですね。いつかサオリのように軽やかに「(正木さんなら)キスしてもいいよv」と言えるようになりたかった。あんなふうに怒りも怖れも丸ごと、体当たりであの人たちとつきあって、その先へ行ってみたかった・・・。映画見ている間はほんとうにサオリになりきって(笑)、そしてそれが楽しくて見に行っていた・・・んだと思います。

DVDの値段分くらいは既に映画館に支払っている気がしますが(笑)、出たら絶対買うと思いますvvこれから全国で公開が続くようですから、宜しければ是非。

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2005年11月 5日 (土)

血と骨

この原作の本を、私は最初単行本で読んでいました。途中で実家ぐるみで知人のある人が描かれているのに気づき、それを両親に確認してからは、余計真剣に読みました。描かれている暴力については、ある程度理解がありましたが、正直、他の部分については、表に出るものではない家庭内の事なので知らなかったとはいえ、自分の甘さを痛感させられました。読みながら、私自身は高信義に惹かれていました。
ただ、この本を単純に小説として読むと、話はあちこちがぼやけていました。書き難かったんだろうと、それは物凄く作者に同情しますが、作品として見ると、ただ時系列に事件が並べられた年表のような感は否めませんでした。主人公が人間らしさを一切はねつける怪物のような男なので、誰かと感情の交流など望むべくも無く、当然ドラマが生まれる余地さえ無いんです。そのたけしさん演ずる主人公、金氏の壮絶さは伝説と共にv語られて行くんですけれど、作者本人も含めて周りが全部腫れ物にさわるように対しているので、その強さすらぼやけてしまうんですね。映画化の企画が次々頓挫していると言う話を聞きながら、それでも高信義だけはどうしても見たいな~とか思っていました。

そうしたらある日、本屋にこの本の文庫版が積まれていて「映画化決定」の帯が!私が知ったのはもう公開間近だったので(ひょっとしたら公開後?)、帯に写真もついてました。それが、この映画の紹介でたびたび出される、ずぶぬれの男が後ろから取り押さえられているの図、です。見た瞬間「あっ、新井(朴)武だ!」と思いました。ほとんど忘れかけていたキャラだったのに、オダギリ氏の顔を見て、鮮烈に思い出しました。原作では、美人で名高かった母親の息子とすぐわかる程の、美形。この土砂降りの雨の中咆哮するオダギリ氏の写真は、本当に美しかった。そしてこの武には唯一、金とやりあうシーンがあります。それだけと言えばそれだけで、はっきり言って飛ばしても前後に何も障害の無いエピソード。でもこの武を取り上げてスクリーンに描きこむなら、きっと金の強さも浮き彫りになる・・・観てみたい、と私は思いました。

映画での武の存在は、確かに原作からは考えられないほど重要な役割を持たされていました。原作では、金の横暴振りがたっぷり上巻全部と下巻の前半まで使って縷々述べられたあと、やっと武が登場します。だから読み手は、武に対してだけ金が扱いを変えていることに驚きます。しかも小説の中ではそのやたらやさしい?金の事件は金の老いの始まり、という扱いで、武はその下り坂に行き合わせただけの存在。ところが映画では、武は1人で、いわば上巻分の金の「横暴ぶり」全部を引き出すための狂言回し役なんです。だからごく早い段階で出てきますが、そのおかげで観ている人は、金の周囲の人々が何故金に巻き込まれてしまうのか、その強大さを実感し、一方で周りの人の無力感を心底感じ取りながら悲惨な続きを見続ける事が出来ます。これはまず原作を超えた脚本の勝利だったと思います。原作からこれだけ数々の人間ドラマを紡ぎだした脚本には、本当に脱帽ですし、この切り口を与えられて初めて、この映画はただの記録ではなく映画として意味を成したんだと思います。

そしてこのとんでもない重圧のかかる役を、オダギリ氏はほんとに演じきりました。登場した瞬間から、全身でたけしさんに負けていない。存在感で既に対等。さらに一歩も譲らないどころかたけしさんを画面から一瞬忘れさせてしまう程の存在。たけしさんが後にインタビューで言っていましたが、対立する組織に命を狙われるヒットマン(原作設定)というより、「年上すら一目置く若い組頭」といった風情です。そして北野武に負けないだけでも本当に凄いと思うのですが、映画の中でそれが必要だと思えば、めったにやらない120%の芝居をも平気でやってのける。そのオダギリ氏のプロ根性が逆にこのシーンのたけしさんを支えていた、とも思います。たけしさんの本気が、ここで最大限引き出されているわけですから、助演男優賞も、もっともな事。まぁ、15分くらいしか出てないのですけどね(笑)。

原作では武は、きれいな標準語を話しています。韓国で両親の元に生まれながら、母親の姓を名乗らされ、この時代にこれだけ流暢な日本語を話させられている、それだけで武の生きてきた社会での「たらいまわし」生活が目に見えるようで、胸が締め付けられます。映画ではさらに、それが流暢な広島弁となり、さらにその中にとってつけたように、吐き捨てるような「アボジ(父)」という呼称が混じります(原作では「おやじ」)。生まれて初めて使うであろうその呼称からにじみ出る、長く重い生活。恨みや憎しみだけでは到底語り尽くせない万感の思い。さらに、別れ際、異母弟となる作者を「正雄!」と呼ぶ、その時だけマサオのサ、にアクセントを置く韓国式なんです。正雄をま「さ」お、と呼ぶ家族の中に、どんなにか武は入りたかっただろうと思うと、そのアクセントに涙が出ます。たぶん崔監督の指示、でしょうが、その意を汲んだオダギリ氏にも、拍手、でした。

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海峡を渡るバイオリン

「メゾン・ド・ヒミコ」を見るまで、私が一番「オダギリ氏らしい」と思っていたテレビ単発ドラマ。DVDが出るのを楽しみにしていました。「血と骨」とは真逆の登場人物ですが、映像の中でのその存在意義は同じ、とても抽象的なものを具現化する役割です。

私の感覚で言うと、オダギリ氏の顔っていわゆる2枚目、じゃないんですよね。「ヒミコ」で「エロジジイ」が春彦の事を「若くて美しい男」というんですが、見ていて「へぇ、そういう設定だったのか」と思ったくらい(!)「違う」と思う。、私的には例えば「天体観測」というテレビドラマに出て来た伊藤英明とか坂口憲二みたいのが2枚目。文句なし美しい顔。居るだけで主役vv だけど、ファンの人には殴られそうなんですが、正直、時々見分けつかなくなるんですよ・・・まぁ、そこまで馬鹿じゃなくても(笑)、例えば今あのドラマを撮り直すとしたら、伊藤・坂口の代わりに速水もこみちや玉山鉄二が来ても全然大丈夫。小雪さんや田端智子さんは絶っっっ対にはずせないと思うのに。そして逆に、オダギリ氏でなければ、あれはもっとあっさり見やすいドラマになったと思うのですが、それでもやはりアノ役は次もオダギリ氏で見てみたい・・・そんな感じです。
で、そういう「存在感」のある役者さんだったら、私の好きな人だと小倉久寛さんとかここに何度も書いてる中村獅童さんとか、別にほかにもいっぱいいると思うのですが、オダギリ氏は時々、更に突っ込んで「目に見えないものを形にする」んです。この「海峡・・・」のドラマの中でも、少年の目から見た、いわばフィルターかかりまくりの(笑)「先生」の役なんですが、そのフィルターをものともせず、先生の存在をリアルなものとし、さらに同時に、憧れというものをそのまま形にしたような「絵」を作ってました・・・美男子じゃないのに。

生身の人間が動いて映像に残すのに「ドキュメンタリー」ではなく「映画」になるのは、ひとえにこの「役者の力」だと思います。感性や感情や感覚といった、絵や文字や音でしか表せないものに、人という「形」を与えて再構築し、昇華し搬化して見せるから撮る意味がある。その意味ではオダギリ氏は時々本当に「役者」だと思います。時々、っていうのがいかにも何とも・・・なんですが、これと、「アカルイミライ」と「血と骨」、あとたぶん「ヒミコ」はは本当に出色の出来だと、思いました。

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2005年11月 4日 (金)

イン・ザ・プール

私はもともと単館公開系の、マニアックなコアな映画が好きです。以前書いた監督以外にも、パトリス・ルコントとか、最近で言うと「ウィスキー」という映画を作ったファン&パプロとか。で、↑これもさまざまの好条件が重なってたまたま行けたレイトショーでしか見られなかったものです。DVDが出てるのにはびっくり(笑)。っていうかオダギリ氏的には、これをお茶の間で見てもイイんでしょうか>24時間勃ちっぱなしの情けなさすぎるサラリーマン(笑)
私にはソーゾーのつかない痛みですが、その迫真の演技に主人は大爆笑していましたから面白いんでしょう・・・「スタンド・バイ・ミー」のように、ここは男の人の笑い、なのかも知れません。でも全般に、緻密に「作られた笑い」で、私は好きでした。はたから見ると情けない強迫神経症のおねーさんやオダギリ氏が部屋でグッタリと落ち込んでいる時、流れてくる曲が「♪アカシア~の雨~が降る時」ですからね(笑)。「このまま~死んでしまいたい~」オダギリ氏、号泣してましたから(大爆笑)。つか、そんなナツメロ今ラジオじゃかかりませんから!!

でも映画館で見た時、一番鮮烈に覚えているのは実は、エンドロールのBGMでした。シュガーベイブの「DOWN TOWN」・・・お若い方ご存知でしょうか、昔「俺たちひょうきん族」というTV番組があって、そのエンドタイトルがこの曲だったのです。この映画の監督、三木さんは「シティーボーイズ(大竹まこと・斉木しげる・きたろう)」の作家監督で、「トリビアの泉」の製作者(!)ですから、単なる偶然ではありません。そして「タケチャンマン」や「アミダ婆ぁ」や「バイキンマン」がいっぺんに頭の中で炸裂する中、この映画の笑いに対する違和感もするっと腑に落ちました。つまりこれは全編愛すべきテレビ的笑い、の世界なんです。この映画のネタを、例えば渋谷公会堂でドリフターズがやったら、100倍面白かったに違いないのに、映画だと、媒体としてでかいのでスカスカする(視覚的効果、という意味ではなく)。監督自身が、患者と医者が肩組んで階段降りていく所が「一番良い」と言っていましたが、私に言わせれば、それはかつてコントの落ちに、たけしとさんまが肩組んでスゴスゴと立ち去っていった姿と同じもの。映画は、次にコマーシャルがあるんじゃないんですから、そこで修めてはいけない。それに隙間をコネタで埋めると空間の広がりが無駄になってしまう・・・広げてる風呂敷がでかいんですから。

テレビ的笑いが、こうして映画として残ることの嬉しさと悲哀と。あの煌く職人芸の数々はいったいどこへいってしまったんでしょうかね。

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2005年11月 3日 (木)

あずみ

上戸彩さん主演の、同名の非情な忍者漫画が原作の映画です。でもどういうわけか(笑)彩ちゃんだけでなく脇役のオダギリ氏まで、この映画で日本アカデミー賞新人賞というのを取っています。「クラブ進駐軍」の時も思ったのですが、この人は脇でとても光るんですが、ぼんやりしてると主役は取って食われるくらいの光り方ですので洒落にならない(笑)。使う人はタイヘンでしょう。
そして何を隠そう私はこの人が人を斬る時の、あの笑顔がたまらなく好きです(おい) クウガのゴダイくんも「笑顔」がトレードマークだったんですが、 おかーさん的には、この狂気をはらんだ「喜色満面」の笑顔のほうがしびれます (笑)。 まるで歌舞伎の色悪の見得のように、残忍で美しい笑み。 殺陣も、美しく見えること最優先で派手に残身とか取ってましたから よけい妖しくて(笑)でも華やかで見せ場になっていて良かったです。 あとおねえ言葉が凄い似合うのにもびっくり・・・素なのか?(大爆笑) 三谷さんは絶対あずみを見てオダギリ斉藤に決めたんだと思います(いや、斉藤 はそういう人・笑)。

そしてメイキングDVDを見てわかったのですが、この北村龍平監督はいまどき珍しい「太陽にほえろ」系熱血王道勢い(!)監督でした。私も昔一応体育会系クラブだったのでこ~ゆ~人の思考回路は大体想像つくんですが、たぶんこの監督にとってオダギリ氏みたいな人はウザくてワケわからなくて物凄く付き合いにくかったろう・・・と思います(DVDでもちらりと独白)。でも実はこの人のオダギリ評が、一番的確で当たってました。曰く、「性格悪いな、コイツ」「根底に愛情がねぇのかな」「どういう環境で育ったらそういう風になんの?」・・・etc.
そもそも映画に手を染めようなんていう人は、常人とは違うものを抱え込んでいる自分というものを一番大事にしていますから、似たフィールドに立っている人に対して、とても点が甘かったり簡単に共鳴したりします。たぶん自分の疎外感の裏返しなんだろうと思います。でも映画を見るのは「常人」です。そしてその常人の感覚に首まで浸かったままのこの監督の表現は、こちら側の私達にとって凄く明快です。たとえ見る側は役者についてそこまで知る必要は無い、にしてもです。少なくとも監督の側が、わかって撮っているのと偶然撮れた絵を使うのとでは、役者を育てる、という視点から言えば天と地ほどの差があります。

この監督の映画感覚は、オダギリ氏にとってはがさつで大味なものにしか見えないんだろうと思いますが、でも「この監督の目にどう映るか」というのは、この人にとって結構大事な観測点なんではないかと思っています。次があるとは思えない、と監督言っていましたが(笑)。

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2005年11月 2日 (水)

斉藤 一

image3新撰組の隊士の中で誰が一番好きかといわれると、私は昔から土方でも沖田でもなく斉藤一です。もし同時代の人でもう一人挙げていいと言われたら岡田以蔵。私は昔これを言って、時代物の好きな主人に人非人呼ばわりされましたが(笑)、ふつ~の人は斉藤一そのものをほとんど知らないのじゃないかと思います。だから大河ドラマでオダギリ氏が斉藤一を演じてくれた時は、この必殺仕事人の認知度が上がり私も変態呼ばわりされなくなって、非常に感謝していましたvv

三谷さんの新撰組!が出るまで、歴史小説・ドラマなどでは、隊士の「20代」という年令を、当時の人の寿命から逆算して今の30~40位の感覚で捕えていたと思います(漫画除く・笑)。働き盛り集団。そのセンで行くと、私的には斉藤一は佐藤浩一なんですね。あのくらいオヤジ(笑)。で全身からどうしようもなく荒んだ雰囲気を漂わせる、歩く殺人鬼。何でか。人を斬るから、です。
私は、剣を構える人はつまるところ殺人鬼としてのみ存在が許されると思っています。剣の力を思想信条の手段として利用したり、剣を持ちながら人を殺すのに理屈やいいわけをこねる人は、剣に対して無礼です。構えた以上は、ただひたすら全身を刀となして、人を斬るのが本当なのであり、道場の稽古とは、そこが全然違うのです。道を究める、といった自己満足の追求ではなく、逆に己を無にした、やるかやられるかの「真剣」だからこそ構える価値があるのです。その辺りに迷いのない、斉藤さんと以蔵さんは真の意味での達人だと思います。

佐藤浩一さんは三谷さんの新撰組では、何と芹沢鴨にまで昇格していました。だから新撰組の隊士は更に若い。なんというか、お兄ちゃんの集団、です。今まで無学の百姓浪人ということで片付けられていたさまざまの矛盾に満ちた行動も、そこでは「若さ」でさわやかにトバシていきます(笑)。そういう前提で、オダギリ氏の斉藤一は出てきます。佐藤さんは斉藤の時も芹沢の時も同じように全身「殺人鬼」でしたが、オダギリ氏は・・・この人は何をどう演じても、卑屈さや卑しさといった堕ちた感情が身に添わない人で、暗くてもドロドロにはならず、翳があってもそのまま道の真ん中を堂々と歩いていきます(それも若さか?笑)。でもだからこそ、斬る時の凄みは半端ではなく、その瞬間、「人間じゃないもの」に豹変するのが、全身が刀そのものに成り代わるのが、はっきりわかります。ドラマの中では芹沢と斉藤の接点が時々あるんですが、並んで描かれていると本当に面白い。年令が逆転しますが見ていると、佐藤浩一的人生を歩いてきた斉藤が行き着いた先がオダギリ斉藤だった・・・そんな感じがするんですね。ぶっちゃけ、佐藤さんのほうはやんちゃですが、オダギリ氏のほうはコワいです(笑)。

三谷さんの新撰組!に、私と主人が、いかにも「斉藤らしい!」と唸ってしまったせりふがあります。最後のほうで、結核でもう先のない沖田君を見舞いに行った斉藤が、縁側で沖田本人に、「いつ頃死ぬんだ?」と、優しく淡々と聞くのです。命は大切にしましょう、といった絵空事の吹き飛ぶような、凄いせりふです。「人は死ぬのだ」という事を、いやというほど体で受止め続けてきた斉藤だからこその一言。そして強い彼だからこそわかる、自分とは違う強さを秘めた沖田の才。ただその事ゆえに彼をいとおしみ、その運命をどれほど惜しく思ったか、胸中は痛いほど伝わってきます。

斉藤一は、そういう、「真剣な人」だったろうと、私は思っています。

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ヴェニスの商人

1000367_01「ヴェニスの商人」公式サイト



Kさんに誘われて、行って参りました。映画の日という事で大人気、私より年上のおば様たちは確実にアル・バチーノ目当てでいらしていたと思います。かく言う私もその一人、昔うちにいた人形にこの人の名をとってアルと名づけていた位ですから(笑)話の筋がわかっていても、出ているその他(!)役者に全然ときめかなくても、頑張って朝から整理券をゲットしたのでした。

・・・凄く良かったです。見る前は、シャイロックをアル・パチーノがやるので、劇団四季その他がよくやるように「社会的弱者としてのシャイロック」が声高に叫ぶのだろうと思っていました。正直、ああいう解釈はシェイクスピアを馬鹿にしているし、舞台で見るといかにもあざといので嫌だったのです。でも今回、視点は同じでもアル・パチーノはシャイロックを、本当にごくごく「普通の人」として演じていました。これほど手垢にまみれたステロタイプなキャラクターに、細心の注意でリアリティを持たせ続け、その事で、シャイロックの言い分が「ごく普通の人の、当たり前の主張である」と静かに観客に訴え続けていたのです。
「陽が照っているのに、ユダヤ人だけが暑くない、ということがあるか?刀で切ってもユダヤ人は血が出ないのか?」写真の場面でシャイロックは許しを請う人々に語ります。金を借りる時も、返せなくなった時も、彼の「異質性」を自己弁護のために使いづつける人々。その意地汚い「保身」こそが確執を産むのであり、ごく普通のシャイロックの前にあってその異常な醜さがだんだんと暴露されていきます。そしてラスト、「血を流さずに肉を切れ」と言う判決の後、シャイロックは進退きわまってうめき声を上げます。どうしようも出来ない無力感に打ちひしがれ、砕け散った自分をかき集めるように我とわが身をぎゅっと抱きしめて、うめくシャイロック。その惨めな姿がそのまま「シャイロックは私達と同じ人間」であることを、この上なく静かに、他のどんな言葉よりも力強く訴えかけてきます。

若い男性には、劇中新婚の奥様にいいように手玉に取られる主人公の青年2人がいかにも情けなくて不評のようですが(笑)、機会があったら是非ご覧になる事をお薦めします。




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