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2005年6月24日 (金)

「らしさ」のよしあし

もう公演終了間近なので、書いてもいいかなと思います・・・「桜姫」何度か行って参りましたので感想を。
この劇は、見た人はまず、歌舞伎から題材を取りながらも元の芝居とはまったく別のモノになっている、という所にどうしてもこだわってしまうと思います。流転の果てに堕ちた桜姫は、権助も子供も殺さず一人狂気の世界へ旅立つ、というラスト。そこから逆算され描き起こされる桜姫は、当然、運命に流され泣きの涙で堕ちていくか弱くもはかない女性となります。原作の、あの凛と強くしたたかで切れ者で、でも周りは手を差し伸べずには居られない「桜姫」・・・の姿はどこにもない。串田氏の考えるお姫様、というのはあくまでも「たおやかでおとなしい」人、なんでしょう。まぁ普通のお姫様がああいう運命に出会ったと考えるなら、今回の戯曲のほうが至極自然でまっとうな気がしますが(笑)。戯曲の「リアリティ」では歌舞伎の桜姫の「スケール」は呑みこみ切れなかったという所でしょうか。

そこで皆が一様に思うのは「やっぱり桜姫は玉三郎でなくては!」というところ。当然です。あの元々はよくわからないしただ長いだけだった「桜姫東文章」と言う芝居を人気狂言に仕立て上げたのは玉三郎なんですから。あの場当たり的な一見何の脈絡もなくみえる桜姫の言動に「芝居としてのリアリティ」を与え、その「歌舞伎な魅力」で全編客を引っ張り続けるという、途方もない仕掛けを考え出したのは玉三郎だったのですから。あの強さと脆さを危ういバランスできりきりと内包し続ける芝居は、やれと言われても彼以外出来ないでしょう。もっと言えば、私は「その」桜姫が好きなので、もともとの「本」を単独で見れば、これは駄作の部類に入るものではないかとすら思うのです。

ただし。換骨奪胎して見るならば、つまり元の本を駄作と割り切って事件だけを参考に新しい劇を作るならば、これは題材としては面白いものである事も確かです。か弱いお姫様が運命に翻弄され、だんだんとその人となりまでが変えられていく様は見る人を惹きつけて止まないと思います。そういう、いわばいい意味でも悪い意味でも「良くある」お姫様を真っ向から真面目に演じていたのが今回の福助でした。そして、そういう手垢にまみれた人物像を出してきた脚本の意図を一番よくわかっていたのも福助丈だったと思います。いつもは桜姫に翻弄されていればよかった清玄・権助が、最後まで自分の居場所をつかみ損ねておろおろしていたのに対し、桜姫は一人、狂気への道を一途にひた走っておりました。そしてそのひたむきさを巧まずして全身から噴出させる事が出来るのが、福助丈の凄みであり持ち味なのです。
そういう意味では、串田「桜姫」は福助丈のためにあるようなもの、とも言えるでしょうし、福助丈もそれに十二分以上に、本当に見事に応えていたと絶賛されてしかるべきだったと思います。

そして。あえて言わせて頂くならば。
同じく不出来な本を渾身の力を込めて演じ切り、片や不世出の名狂言としてかければ大当たりを取り、片や途中から芝居が端折られ捨て興行にされてしまう、その違いこそが、血筋でも家柄でもなく、やはり本人の才、と言う事になるのでしょう。厳しいものだと思いましたです。

sakurahime

← 「福助 NEWS」より。

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