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2005年4月

2005年4月29日 (金)

あちらのサイト(笑)

5月から、人形サイトを閉じ
人形達の写真はここで「今日のうちの子」と銘打って公開するつもりでおります。
サイトをたてるほど写真が撮れない・・・というのがホントのとこです。
でも閉じるといいながら新しく一人増えそうですし(汗)
人形のプロフィールや「IDEA」へのリンクは残そうと思っています。
ここは掲示板がわりですので、コメントはご自由に。

そしてこのブログ内の他のカテゴリを覗く時には、充分にご注意下さい。
ええ、いろいろと(笑)。

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一瞥

4月歌舞伎、さんざん行って参りました。
来月は残念ながら観たいものが掛からなかったので、歌舞伎月間は今月でおしまいです。一番楽しみにしていたのは、何と言っても夜の部の「籠釣瓶花街酔醒」。私は今まで大々幹部の八ッ橋しか見た事がなかったので、失礼ながら、身代かけても惜しくないほど美しい「一瞥」にはとんとお目にかかれず(笑)今回玉三郎丈ということで、何をおいても「見染め」に期待しておりました。
・・・素晴しかったです。ほんとうに、何度観てもため息しか出てこない。次郎左衛門だけでなく客席中が魂抜かれる艶やかな笑み。「そんななりでこの色里へ?」と不思議そうに微笑む顔には、ただ美しいだけではない、八ツ橋の心根のあたたかさもにじみ出ていました。今までの「花魁の気まぐれと権勢を示す一瞥」という定式な笑みとは一線を画していましたし、そこがあとの芝居にも大いに利いていました。ほんとうに、文字通り、たった一瞥なのですが。

ところが新勘三郎の次郎左衛門がよくなかった。
こういう人情噺系の役はこの人にとって得手中の得手・・・の筈だったのですが、どうにもこの次郎左衛門、明るくて人が良すぎて出来すぎていて、何をされてもにこにこ笑って許していそうなおとなしい男。刃傷沙汰を起こそうなどという深い腹のうちの、翳りも見えてこないのです。だから愛想尽かしされた4ヶ月後、刀持って廓へ上がってきた時にも、全然凄みがない。このままお茶飲んで帰っちゃいそうな雰囲気。いきなり切りかかった時も、ひょっとすると八ツ橋よりもお客さんのほうが驚いちゃったかも(笑)という、まるでとってつけたような鬼の形相でありました。
これは以前見た吉右衛門丈の次郎左衛門の方が良かった。この人はこの華やいだ雰囲気の場でただ一人、あくまで堅くまじめな朴念仁であるべきで、そこで初めて後の「心の闇」が手に取るように伝わって来るのではないかと。「俊寛」を当たり役とする吉右衛門は、そのあたりの強さ、大きさがたっぷりでした。
だいたい、新勘三郎は先代の「松竹新喜劇」のノリは十二分かそれ以上に受け継いでいるのですけれどもそれだけでは片手落ち。歌舞伎でその笑いが許されるのは、腹の据わった太い芝居が一方にあってこそでしょう。このまま行くと人気があるのは歌舞伎ではなく「猿若」・・・という事になってしまいそうで。

大入満員の、でもいつもとは違う客層を観ながら、スーパー歌舞伎のような違和感まで頭を掠めた4月でありました。

pict_03123 豊原国周筆

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シャコンヌ

とりあえず前回のものを再掲します(笑)

バッハの「無伴奏バイオリンのためのパルティータ第2番(BWV1004)」は、シャコンヌという変奏曲の型を代表するかのように特にその名で呼ばれています。名曲と誉れ高いですが、人の心を包み込むと同時に外へと解き放つ、魔力のような重さを持った曲です。誰が、どんな時に、どんな思いで弾くかによってこれほど変わる曲もないと思います。かくいう私も含め(汗)好きな人は死ぬほど好きになる曲、でもあります。ここにも何回も書いていて、耳タコの方には申し訳ないことです。

バッハを神とも慕うブラームスがこの曲をピアノ用に編曲した物があります。左手だけで弾くように指定されているので譜面そのものは簡単です。私も一度右手に置き換えて、パイプオルガンで弾いてみた事があります。聴いている人の感覚としては、この曲は最初から最後まで頭の中に幾重にも深く厚く音が積み重なり響きあう・・・イメージなので、オルガンですから、音色を様々に拡げ、和声を増やし、もう一本の手も足も(笑)フルに全部使ってヴァイオリンから頭の中に広げられるあの馥郁たる世界をそのまま再現しようとしてみました。でも、どんなに頑張って重厚長大な和音を重ねても音を膨らませても、原曲のヴァイオリンの出すあの一音一音には、かすりもしません。私の力量は最初から問題外ですが、そうではなく、ブラームスがこれを左手一本で(いわば装飾「なし」で)弾く様に指示したその理由も、まさにここにあるのでした。
この美しい曲は、演奏者からみればフレーズと言うより一音一音それぞれに、いちいち大切な意味があり色があり光があり響きがあって、それを全部一つ一つ丁寧に掬い上げて拡げていかなければ、曲にならない。ピアノは例えばその一音に十もの音をかぶせる事が出来るけれども、そうではなくその一切をそぎ落として勝負する曲、なのです。ひょっとするとピアノにはむいていない?

このピアノ・シャコンヌのひとつの答えとして、館野泉という著名なピアニストの弾いたものがあります。この人はもう大ベテランです。40年以上も「両手で」ピアノの大家として弾いてきた人ですが、三年前ある日突然脳出血で右手が動かなくなりました。昨日BSでそのドキュメンタリーを放映していました。左手だけでも、曲は限られますが、館野泉として演奏活動は続けています。

この方のシャコンヌが、本当に、本当に素晴しい。40年間弾き続けてきたからこそ出せる、一音もゆるがせにしない大変な技量と精神の強さで「左手だけでなければ弾ききれない」この曲の世界を、深く深く拡げていきます。その底には、他のシャコンヌとは違う、静かに、でも熱く語りかけてくる何かが滔滔と流れています。

ドキュメンタリーでは、館野さん自身にインタビューしていて、私はどうしてもこのシャコンヌについて氏の言葉を聞きたかったので必死で見てました。左手だけでシャコンヌを弾き始めた時の事に話が及ぶと館野さんは言葉に詰まって目を赤くしながら、ワンフレーズを弾きました。そうして
「この一つ一つの音が、何と言うか・・・とても・・・いとおしい、そんな感じだったのです。」と言いました。

いとおしい・・・
40年間弾いてきたものを突然取り上げられ、まるで「呼吸が出来ないのと同じ(氏談)」ように感じた時それでも何よりも氏に必要だったのは「自分の音楽」だったのでしょう。その地の底奥深くにやっと舞い降りてきた音は、それこそ館野さんそのものといってもいい、何物にも代えがたい音だったことでしょう。一つ一つの音から、その「いとおしさ」が熱く伝わってきます。ほんとうに、心の底からいとしまれた音の数々。そして自分の内にそういう音を持つ人にしか、弾く事の出来ない「シャコンヌ」という曲。


CDはクラシック物には珍しく大変良く出回っていますので
良かったらレンタルで是非御一聴下さい。

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